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多摩のむかし道と伝説の旅 №62 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         -狭山丘陵南麓の根通り道を行く-3

                原田環爾

 豊鹿島神社を後にして青梅街道を西へ進むと程なく武蔵村山市の市域に入る。

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狭山丘陵3-2 のコピー.jpg狭山丘陵3-3 のコピー.jpg 街道左に細い谷戸川の流れが現れ、そこに大橋と称する小橋が架かっている。橋の南詰には「大橋の地蔵尊」と呼ばれる小さな堂宇がある。享保13年(1728)に中藤村の人々によって造立され、無病息災、交通安全を祈ってお参りする人が多いという。また堂宇の真向かいに古びた石橋供養塔が立っている。言い伝えでは大橋は危ない橋でよく事故があり、そのため造られたという。この地蔵尊のお蔭で怪我はなかったという。狭山丘陵3-4 のコピー.jpg
 大橋から谷戸川沿いの中藤の青梅街道を西進する。しばらくは単調な道となる。300m進めば沿道右手に八坂神社がある。祭神は素戔嗚尊。創建年代は不詳であるが、境内には弘化2年(1845)の常夜灯がある。また立皮の桜と呼ばれる幹回り2mの桜の名木がある。立皮桜は縦に皮が剥けないことから付いた名という。上野の寛永寺、奈良の長谷寺など限られた所にしかない珍しいものという。狭山丘陵3-5 のコピー.jpg更に200mばかり進めば街道は大きく南へカーブする。そのカーブ地点に根通り道が分岐する。根通り道に入るとすぐ右手に熊野神社がある。祭神は伊弉諾尊と天照大神。創建年代は不詳。江戸時代すぐ近くの真福寺持ちであったが、明治になって愛宕神社と合祀し、谷津地区の鎮守となった。社殿内には「指田日記」の筆者指田摂津正藤詮の筆による熊野権現の額が掛けられている。
狭山丘陵3-6 のコピー.jpg 熊野神社から根通り道を50mも進めばこんもりと茂った丘がある。丘の上にはこじんまりした境内地に入り天満宮が鎮座している。祭神は菅原道真。創建年代は不詳。これも元は真福寺持ちであったが、明治以降神仏分離により、中藤村入り集落の氏神として氏子が管理するようになった。他に八坂社、稲荷社、水天宮も合祀されている。入り天満宮裏の第三小を反時計回りに回り込むと、中藤きっての古刹真福寺の門前に来る。真言宗豊山派の寺で正式には龍華山浄光院真福寺と称す。奈良時狭山丘陵3-7 のコピー.jpg代の和同3年(710)行基によって創建され、承久2年(1220)落雷によって焼失したが、正応3年(1290)龍性法師により中興開山されたという。参道を進み古びた楼門形式の山門をくぐると、正面奥に本堂、右手に鐘楼がある。本堂は、安永7年(1778)の建立で本尊は薬師如来。山門は江戸時代の建立で、寛永15年(1638)鋳造の梵鐘が収められている。また左手少し離れた所に狭山観音二十番札所の観音堂がある。江戸時代の建立で、江戸時代中頃から奉納され始めた百体観音が安置されている。
 百観音堂を後に、第三小の裏通りから緩い下り坂の狭い街路をうねうねと辿ると、鍵の手の根通り道の角地に地狭山丘陵3-8jpg.jpg狭山丘陵3-8 のコピー.jpg蔵堂がある。この辺りは旧原山村で地蔵は原山の地蔵尊と呼ばれている。享保4年の造立で子育地蔵として信仰されている。土地の伝承では昔、百観音の大芝居の時に喧嘩があり、そのとばっちりでかりまめの娘が斬られ、その供養として村人が造立したという。ただその事件があったのは明治元年で時代が合わないが、土地の人は「かりまめの娘地蔵」と呼んでお参りしているという。なお「かりまめ」とは原山にあった家の屋号とのことだ。続いて根通り道を西へ進む。この道はすぐ南の現青梅街道と50mばかり離れて並走している。程なく右手に鳥居と原山公会堂が現れる。参道先の小丘の上に粗末な神明神社の社殿があ狭山丘陵3-9 のコピー.jpgり、その右少し離れた所に地蔵堂がある。六ツ指地蔵尊と呼ばれている。六ツ指地蔵尊も子育地蔵として信仰されている。とりわけ五体満足をお願いするという。この地蔵には悲しい話が伝えられている。江戸時代のはじめ、屋敷山(現三小)にこの地を支配していた前島十左衛門という地頭の屋敷があった。ところがその娘はどうしたことか指が六本あった。年頃になると娘は身の不幸を悲しみ世をはかなんで自殺してしまった。村人は娘を哀れんでその菩提のために六ツ指地蔵尊を建てたという。
 神明社を後にして根通り道を西へ辿る。丁字路にぶつかり左狭山丘陵3-10 のコピー.jpg折するとすぐ再び丁字路になるのでそこを右折する。この街路は根通り道であると同時に村山往還の道筋でもある。ちなみにこの村山往還を東へほんの少し進んで現青梅街道と合流する所には指田日記で知られる指田医院がある。指田日記は、指田家の祖である指田摂津正藤詮が天保5年(1834)から明治4年までの38年間にわたって記録した全16巻の日記である。日記は、政治・産業・世俗・慣習・行事・事件などについて克明に記録され、その範囲は武蔵村山市のみでなく近隣村落にも及んでおり、当3狭山丘陵3-11 のコピー.jpg時の歴史を知る貴重な資料になっている。さて村山往還を西へうねうねと進むとやがて三度丁字路に出る。根通り道はここを右折するのであるが、左折して現青梅街道に出るとその角地に萩の尾薬師堂がある。薬師堂の建立年代は不詳。天正18年(1590)に滝山城が落城の折、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったと言われる。境内には、南北朝時代の「延文元年(1356)了意禅尼』と刻まれた宝篋印塔がある。但し笠と基礎部分が残るだけである。(つづく)


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