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批判的に読み解く歎異抄 №29 [心の小径]

(おわりに)十三条(本願ぼこりと造悪無碍)再考 1

     立川市光西寺住職  寿台順誠

 おわりに、釈撤宗さんが言っていることをさらに二つ取り上げて、反駁しておきたいと思います。第一は、釈さんが唯円を「グルグル唯円」と呼んでいることに対してです。釈さんは以下のように言っています。

 私は「グルグル唯円」と呼んでいるのですが、唯円は、「造悪無碍」にも「専修賢善」にも振れない中道を行きながら、一つひとつの事案についてAも違うがBも違うと、丁寧に主張しています。誠実さと明噺な思考の両方を兼ね備えていた弟子でした。(釈徹宗前掲書、82頁)

 しかし、私に言わせると、唯円は「グル」「グル」と二度回って両方とも批判する「グルグル唯円」じゃなくて、一方しか批判しない「グル唯円」にすぎません。以上に見てきたように、両極のバランスなど全然とっていないからです。一方に偏しているのです。一般的なものの考え方として言えば、私もバランスは取れていた方がよいだろう、いずれにも偏しないで中道を行く方がよいだろうとは思います。が、だからといって『欺異抄』もそうなっていると読むのはやはり読み込み過ぎです。人気があるからと言って、自分好みの『『歎異抄』を作っちやいけないのです。
 それからもう一つ、十三条についての釈さんの見解を紹介して、それに対する私の考えを述べておきたいと思います。釈さんは、十三条が「専修賢芦を諌める一方で、親鸞の御消息から「くすりあればとて、毒をこのむべからず」という言葉を引用して「造悪無碍」
も批判しているということを強調しています。(釈徹宗前掲書、73頁)  十三条の祖部分を確認しておきましょう。

 そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべLとにはあらず。

 このように「造悪無碍」批判の言葉もちゃんと紹介しているのだから、十三条はバランスを取っているというのが釈さんの読み方なのですが、でも私はここで親鸞の手紙を唯円が引いているのは、いわば「アリバイ作り」に過ぎないということを言いたいのです。十三条は全体としては、「本願ぼこり」を批判するのはおかしいということを言っているのであって「専修賢善」批判を展開しているわけで、その途中に上の「文が申し訳程度に差し挟まれているに過ぎないからです。ですから、この「文も結局は「まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず」という主張を繰り返すのに役立っているだけなのです。この「アリバイ作り」ということをさらに分かりやすくするために、少し別の例を出すことにしますね。
 この十年ほど私は生命倫理の勉強をしていて、「安楽死・尊厳死」の研究をしています。が、最近では一般に「安楽死」(eulhanasia)よりも「尊厳死」(death with dignity)という言葉を好んで使うようになってきたのには理由があって、実はナチスが「安楽死」という言葉を使って、「障害者」や「無益」と見なされる人を、実際に抹殺する政策を行ったということがあるので、「安楽死」という言葉が嫌われるようになったのです。それで日本でもアメリカの流れに従うようにして、「安楽死」から「尊厳死」へと言葉を置き換えてきたのですね。ですから、例えば日本尊厳死協会は、同協会が推進する「尊厳死」は「安楽死」とは違うということを強調しています。
 このことをもう少し詳しく説明しますと、よく「安楽死」には、薬物などを投与して積極的に死に至らしめる「積極的安楽死」(active euthanasia)と、人工呼吸器などの延命治療を差し控えて自然に死ぬに任せる「消極的安楽死」(passive euthanasia)があるという分類がなされますが、日本では「尊厳死=消極的安楽死」と考えている人が多く、現に尊厳死協会もそのような説明をしながら、だから「尊厳死」は「(積極的)安楽死」とは違うということを強調しているわけです。但し、この「尊厳死=消極的安楽死」という語法は日本でしか通用しないもので、他の諸国では「積極的安楽死」や「医師による介助自殺」(physician-assisted suicide)の場合にも、それが「尊厳」を保護するためになされるものであれば、「尊厳死」と言われています。ちなみに、最近オランダはじめベネルクス三国で合法化されてきたのはまさに「積極的安楽死」であり、スイスの関連団体が外国人も受け入れて行っているのは「医師による介助自殺」ですが、近年こうしたことが世界的に注目されるようになってきたということがありますね。
 ところで日本尊厳死協会などが「尊厳死」は「安楽死」とは違うということを強調する場合、そこには同協会が推進しょうとしている「尊厳死」は、ナチスがやったような「人殺し」ではなく、真に「尊厳」を護って人を苦しみから解放することだということを主張する意図があると思います。が、我々が推進しようとしている「尊厳死」は、ナチスがやったような、優生思想に基づいて「劣っている」とされる人を抹殺するような所業ではない、と三口断ったからと言って、推進しようとしている「尊厳死」が、本当に質的にナチス的な「安楽死」から免れたものだと言えるかどうかには疑問が残ります。現に私たちは「無益な延命治療」などという言葉を平気で使いますが、或る人が生きていることを「無益」だと評価することは、質的にナチスの優生思想と完全に異なるものだとは言えないような問題もはらんでいると思うからです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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