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渾斎随筆 №79 [ことだま五七五]

相馬黒光といふ人

          歌人  会津八一

 中村屋の老夫婦といふものは、二人とも揃って、今の世の中には珍しいやうな、すぐれた人だった。旦那さんの愛蔵君の方は、知的に物を考へぬいて、科學的な見きはめをつけて、理ぜめにものをして行く人だった。しかるに黒光の方は、感情的で、いつも何かの観念を持ってゐた人。それがよく調和して今日の中村屋を築き上げてゐた。
 その愛蔵君は昨年物故し今また黒光が亡くなったが、黒光の一生は、その無鉄砲を許した偉大なる亭主のお陰で、幸福だつたと思ふ。よく世間でロシアの革命家エロシュンコを助けてやるために、自分の家を守ってゐたといふけれども、それはもちろん、愛蔵君の強い意思で時の警視廰と闘ったのだが、内部的には黒光が原動力であったのだ。その次には、印度の獨立運動を助けるため、運動の志士故ビバリ・ボースの日本亡命中あらゆる援助を惜しまなかったし、金だけでなく、自分の娘までボースに与えて興えて励ましてゐる。印度の獨立といふことは、支配者である英國にむかつて謀反させることなんだから、時の政府の顔色も良くない。それを實に烈しい感情と深い信念で押しとほしたのだ。
 もともと中村屋の若主人を中学で教へてゐた時、うんと叱って落第させたことがある。すると愛蔵君と黒光が夫婦して訪ねて来て禮をいった。いさざよく落第させて、それを非常な徳としてゐるのであった。現在、若主人は立派な人で私を親のやうに尊敬してくれるが、その両親のやうな態度は、ワイロ入学の横行する現在諸人の大いに範としてよいことだらう。それ以来、戦災で焼け出されて新潟へ引移った現在も、親交を続けてゐる。最後に會ったのは昨年十二月上京した時だが、老い果てたそのころでも、黒光は私にあふと、一時間でも二時間でも議論をし、いろいろなことを問うては議論して喜んでゐた。とにかく義侠的な人だし権威に負けず、思つたとほりにやりとげる人だつた。文章もうまかつた。
 昨年中國の李徳全がきた時、一個人が面會するプログラムはなかつたが、やかましく面會を申入れてそれを實現してゐる。黒光は李徳全のことを責任感を持つた大きい人物だと賞めてゐたが、これは新潟の人にはちよつとできない藝當だらう。その際、日本の贈物として私の書「泥土放光」の四字が入った皿を贈ったが「どうでせう?」といふから「それはよかつた」と答へたら喜んでゐた。いつか来た印度のパンディット女史にも同様面會してゐる。
 若いころの黒光はコチコチのクリスチャンだった。人間性といふか、人類愛のもととなつてゐるクリスチャニティーに徹してゐたが、晩年は佛数(浄土宗)に帰依して、佛数學者としての私によく質問を出した。毎日お経をあげてゐたし、戒名を私につけてくれと頼んだりした。年をとつてからは、人類愛とはちよつと違った「この國」といふ気特に依存してゐたが、その信念と力強さはちっとも變らなかつた。市川房枝や紳近市子などがよく訪ねてゐたが、時代が達へば代議士にもなった人だらう。晩年老夫婦が住んでゐた調布の自宅の門には、私の書いた「黒光庵」の文字がかかつてゐる。(『新潟日報』昭和三十年三月五日)

『会津八一全集』 中央公論社


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