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渾斎随筆 №75 [文芸美術の森]

少年少女におくる言葉

            歌人  会津八一

 私は新潟の生れで小学校は西堀小学校(今はないが、廣小路の滑防の詰署のある附近)へ通ったものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけっして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だった。
 卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなった.。その時私の同級生は総理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふことをはなばなしく書いて出した人が多かった。私は今でもわすれないが、小學校を出たなら百姓になる、ただの百姓で一生くらしたいといふことを書いて出した記憶がある。
 當時そんなことを書いたのは私だけだつたと恩ふ。當時の私は年齢的にも希望に輝いてをらず成績もあまりよくなかったために、そんなことを書いたのだらうと恩ふ。
 けつして今いふところの平民思想とかを當時もつてゐたのではない。ただ私が、ふるはない、平凡な、そして學問もあまりはなはだしくないただの子供だったことを示すものだ。
 しかしそれから中學へやつてもらひ、進んで大學も出ることができ、今日まで學間をつづけることができた。最初體がよわかったので、希望も消極的だったと思ふが、今日七十二歳の高齢に達しても、わりあひ丈夫でゐる。人間の一生といふものはけっして二年や三年で勝負のつく、いはば短距離競走ではなく、六十年、七十年、時として百年にもわたる長距離兢走だから、なんといつても體が一番大切だ。
 しかしその體も、もちやうによってはもつものだ。私の知人で八十何歳になる人で、子供の時身體が弱かつたといふ人が二人も三人もゐる。
 自分の體のくせと、弱みを守つてゆく、その手かげんさへわかれば、あんぐわい長く、最初體の強いのをほこつてゐた人よりも、かへつて長生きをすることができるといふことがわかる。        『新潟少年少女新聞』昭和二十七年一月十三日

『会津八一全集』 中央公論社


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