SSブログ

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №52 [文芸美術の森]

                       歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ                    

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一                                                         
                           第3回 「日本橋朝之景」

52-1.jpg

≪「東海道五十三次」大ヒット≫

 天保3年(1832年)から天保4年(1833年)にかけて、歌川広重による連作「東海道五十三次」が順次刊行されました。広重は36歳から37歳という年齢です。
 このシリーズは、江戸の日本橋を出発し、東海道にある53の宿場を経由して、京の三条大橋に到着するという旅を描いたものです。途中の53の宿場を描くだけではなく、出発点の「日本橋」と終着点の「三条大橋」を加えたので、全部で55図からなる連作となりました。

 刊行されるや、大評判となりました。広重独特の旅情あふれる描写が共感を呼んだのは勿論ですが、当時の江戸っ子たちの「観光熱」も影響して、人々の旅への憧れをかきたてたのです。
 これを眺める人は、あたかも自分が「お江戸日本橋」を旅立ち、途中の宿場での泊りを重ねながら京に向かっていくかのような「疑似体験」を味わえたのでしょう。

 このシリーズの大ヒットにより、広重の名声は一気に高まりました。のみならず、それまでの浮世絵の主流は人物中心に描くものだったのですが、ここに、北斎が開拓した「名所絵」(風景画)の地位も、続く広重によってしっかりと浮世絵版画の中に確立したのです。

≪お江戸日本橋七つ立ち≫

 「東海道五十三次」シリーズの冒頭を飾るのは「日本橋朝之景」です。

 当時、日本橋は江戸の中心であり、「五街道」(東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道)の基点でもありました。(現在でも、「日本国道路元標」は日本橋の中心と定められています。)
 また、日本橋は江戸経済の中心地でもありました。大きな魚市場もここにありました。
 ですから、広重が、東海道の長い旅の振り出しに「日本橋」を描いたのはごく自然なことなのです。
 この絵はまた「旅の始まり」と同時に、「一日の始まり」である「早朝の光景」を描いています。それもまだ日の出前の早朝であり、東の空にはかすかに明るみが見られる。

 この絵の「構図」は、それまでの定番を破った大胆なものです。

52-2.jpg

  普通、浮世絵で日本橋を描くときには、上の右図(渓斎英泉「日本橋」)のように、橋を横向きにとらえ、その後ろに江戸城を配し、遠景に富士山を添えるという図式が定番でした。
 ところが広重は、日本橋を正面から大きくとらえるというきわめて斬新な描き方をしたのです。

 この絵では、背景の空は明るんでいるから、日の出前の東の空だということが分かります。ということは、日本橋を西側(正確に言うと南南西)からクローズアップでとらえた構図です。これにより、たんなる添景としての橋ではなく、江戸の中心「日本橋」界隈の早朝の活気というものが表現できたのです。

 幕府は、江戸の治安・取り締まりのために、市中の要所に大木戸を設け、夜間には閉じましたが、この絵では既に、画面の手前の大木戸は左右に開かれています。
 まだ完全には明けきらない中、日本橋をこちらに渡ってくるのは「大名行列」。西に向かってくるので、おそらく西国の大名が国元に帰ろうとするところでしょう。まさに俗謡に歌われた通り「お江戸日本橋七つ立ち」なのです。「明け六つ」が日の出頃の時刻を指しますから、「七つ」はその2時間ほど前。季節によっても異なりますが、午前4時ごろの感覚と思ったらよいでしょう。

52-3.jpg

 この絵の「大名行列」は、江戸の町の大半がまだ眠っている中で、国元へ旅立とうとしているのです。なぜ、こんなに早い時刻に出発するのか?
 どうやら、なるべく早く出発して一日に歩く距離を出来るだけ長くし、途中の宿泊経費の節減を図ろうとしたらしいのです。
その上、江戸時代には当然ながら街道沿いの外灯などは完備されてはいませんし、宿場の照明も夜間には相当に暗いものでしたので、夕方の早い時刻に次の宿に着く必要がありました。各藩の財政を考えると、悠長な旅などは考えられず、殿さまも「余はまだ眠いぞよ」などとは言っていられなかったようです。
 そう思って、この行列を見ると、長旅へ向かう緊張感とともに、早朝の旅立ちの物憂いような情感も伝わってきます。

≪「一日千両」を商う魚河岸≫
 橋の手前、左下には、天秤棒を担いだ魚の行商人たちが動き回っています。当時、彼らは「棒手振り:ぼてふ52-4.jpgり」と呼ばれました。「棒手」は天秤棒のこと。「振り」は「触れ売り」が転化した言葉と言われます。つまり、魚とか野菜などを棒で担ぎ、声を出して売り歩く行商人のことです。
 日本橋の北詰には、江戸の台所である大きな魚河岸があり、「一日千両を商う」と言われるほどの活況を呈していました。この魚屋さんたちは、早朝の魚河岸の活況を象徴しているのです。
 魚屋さんたちの後ろに立っているものは「高札:こうさつ」です。幕府の「お触れ」(通達)や「掟:おきて」が書かれていました。日本橋は人が大勢集まるところですから、周知するのに好適な場所だったのでしょう。

 こんな風に見ていくと、広重が定番通りの横向きの日本橋ではなく、開かれた大木戸側から正面向きにとらえたのは、何よりも早朝の日本橋界隈の活気と、東海道への旅立ちの緊張感を表わしたかったからではないでしょうか。シリーズ最初のこの絵には、既に、そのような広重の持ち味と独創性がいかんなく発揮されています。

 次回の「東海道五十三次」では、「品川・日之出」(第2図)を紹介します。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。