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渾斎随筆 №73 [文芸美術の森]

東京の一週間

             歌人  会津八一

 十一月十三日。急行で上京。中村屋の都合で隣の「トトヤホテル」に投宿。ホテルの主人は陶藝家の加藤唐九郎君、これはむかし小野賢一郎君が陶器大辞典を著はした時、使者となって私のところへ題字を貰ひに来て、私からきっぱりとことわられて、空しく歸った人で、それ以来三十年あまり會はないのだが、ただ今は自分の製作のために歸郷中だといふ。それに床は鈴木信太郎の果物を描いた淡彩の横椀物、この人も私の落合時代によく知ってゐた人なので、こんなことでいくらか気拝が落ちつく。
 十四日。午前早稲田大学へ行く。島田総長は旋行中とかで不在。それで図書簡に行くこの日ァメリカのロックフェラーさんが来るといふので、それに見せるために、日米関係の図書を主として、そのほかこの図書館の誇るもろもろの珍本の陳列をやって居た。その方は私も見せて貰ったが、ちょっと別室で人と面會してゐるうちにロックフェラーさんは来てそして折ってしまったといふ。
 そのほかに図書館長の岡村君から、近頃手に入れた織田豊臣時代から徳川初期へかけてのいろいろの肉筆や刊本を見せられた。こんなものを買ふと、骨董道楽だといって、學生から若い教師たちまで不平を云つて困ると館長がいふから、欧羅巴でも米國でも、自分の國の、かうしたものを集めて、整理して、保管して、學者に見せるのは、図書館の重大な仕事の一つだ。いやしくも大學の図書館と通俗図書館や貸本屋と違ふところはここだ。大にやれやれと館長にけしかけて宿へ歸る。
 夜、創元社のものが来て、私の「鹿鳴集」のポケット版を出したいといふ。それが出来たら奈良地方の旋行者には便利であらう。
 十五日。午前早宿田の図書館へ行くと、オランダの外交官でギユリツクといふ人が来てゐるので面會した。亜細亜諸国の言葉に通じ、漢文、漢詩を自分で作り、漢字も上手に書き、私に向つても、最初から流暢な日本語で話して少しも不自由がない。そして日本の古い文献のことを話しても相當の心得がある。今の日本の若い紳士たちの及びもつかないところがある。
 この人が歸つてから、私はこの図書館の書物を二十何種か借り出して、今日の午後にやる自分の講演の参考として、反射幻燈で冩させることにした。
 午後二時からの私の講演は、題を「東洋文藝雑考」として、漢字と假名、書道と繒畫、和歌と漢詩などについて、私の感想をならべ立てて、その間に私の持つ一貫した意見を明かにするつもりであった。その目的は果し得たやうに思ふ。
 早稲田には、もと恩賜館といって、明治天皇からの下賜金をもとにして造られた英國ゴシック風の赤い煉瓦の一棟があって、各科の研究室がその中に設けられてゐた。片上のロシヤ文學、吉江のフランス文學、津田の東洋思想、私の東洋美術史などもその中にあったが、佐野學君が、臨検の検事にそこからすぐに引っ張られて行ったのは、一番特別の想出であった。これが戦争中に焼けて無くなったので、こんど新にその跡へ鉄筋コンクリート七階建の大學院研究室といふものが出来た。その二階にある講堂を、私が遣ひ初めをしに新潟から出かけて行ったことになる。ちやうど同じ時刻に、一階には評議員會があって、石橋湛山なども来て居たが、大勢で混雑して居たから、互に手を上げて遥に挨拶をしたばかりで話も出来なかった。
 私の方は、大學の先生たちも、若い男女の學生も、外来の傍聴人たちも、入り混つて聞いてくれた。その中に鎌倉からわざわざやつて来た吉野秀雄君の顔も見えた。そして大學はテープレコーダーで録音し、中央公論社は速記者をよこした。
 十六日の午前には昨日の票の天、荻野三七彦博士が宿へ訪ねて見えて、昨日の私の講演の中に出て来た「委奴國王印」の是について質問された。それから荻野君と一しょにバスで早稲田へいって、新築の大隈會館で文學部教授たちから晝食のご馳走を受けた。私たちの部屋の床には副島種臣伯爵の正楷の書幅が懸かってゐた。私は平素この老先輩の晩年の草書を重く見てゐるのであるが、この幅はもつと若い頃の筆であるのに全紙に気力の充実した、ほんとにみごとなものであった。ことにその詩は、明治天皇の命をうけて北京へ談判にいった時のもので「二クビ清皇二謁ス咫尺ノ間」と結んであるあたり、明治時代史の一節が鮮かに目前に浮んで来る。
 講義が済んで、早稲田からホテルへ歸ると、間もなく山口芙美子さんが来た。すぐこのほど、北京政府のために、毛澤東を暗殺する陰謀をやってゐるといふ嫌疑を受けて、ある欧州人とともにあちらで死刑になった山口隆一君の夫人が、四人の子供をつれて九死の中からやうやう免れて歸って来たその人で、食事をともにしながら、前後の事情を委しく私に話してくれた。山口隆一君は私の門下の一人で、京都大學で考古學を學び、後に支那で仕事をし、終戦後も北京に踏みとどまって商賣をしたり勉強をしたりしてゐた人で、最近まで折々あちらから音信があり、その中には、北京は日本人の想像も及ばぬほどに平和で、住み心地がいいから、私にも遊びに来ないかといって来た。それくらゐ北京の生活を愛してゐたのに、ほんとに気の毒なことをした。夫人は裸で逃げて来たので、これから生活の方法ももとめなければならないといふので、この家はど気の毒なものはない。そんなことをいろいろ考へてゐると、私の肩から背中へかけて一面に痛み出して、たまらなくなったので、私は生れ落ちて初めてマッサージといふものをホテルへ呼んでもらって、やつと少し落ちついたところで眠についた。
 翌十七日早大の講義を終った。
 十八日正午までベッドの中でからだの疲れを休めて、午後から調布町の隠宅に中村屋の老夫婦を訪ねた。去年の秋訪ねた時にくらべて、庭の草木も、岩石も、よく落ちついて来た。何しろ地所は二萬坪もある中に、五千坪だけ庭にして、その中で老夫婦、若夫婦の住む二棟があるだけで閑静を極めてゐる。近い頃、「主婦の友」に平林たい子の訪問記があって、挿繪の冩眞に、中門の下に立つ老夫婦のあたまの所に、私が先年書いた額が、新に彫刻が出来て懸って居るのを承知してゐたが、今日はその額の下をくぐつて、案内も乞はずに玄関から應接問に通ると、頭山翁の大きな胸像と、私の奈良の歌の犀風が立ってゐた。それから奥へ通って老人たちに會って、よもやまの談に時を移した。しかしこの八十二歳と七十五歳の老夫婦は、世間の老人たちのやうに、何十年たっても毎日同じことを繰り返すことはしない。今度は、近頃燃えるやうな熱心で手を着けてゐる老人救済事業のことを、こまごまと話してくれた。
 十九日目をさますと、武蔵野の初冬はなかなか寒い。縁側へ出て眺めると、廣い庭一面に白い霜が下りてゐた。その霜の中を愛蔵老人は一人で散歩してゐた。
 朝飯のテーブルの上で老夫婦の質問に應じて地蔵菩薩の形式や信仰のことについて、例の如く長噺をしてゐるうちに、迎の車が来て、私と愛蔵翁とは歌舞伎座を見物に行った。今日は若主人の誕生の祝に中村屋に勤める二百人あまりの従業員を、すべて二等席に招待したので、われわれもそのお相伴をしたのである。
 その晩、私は再び新宿の「トトヤ」へ戻って聞くと、昨晩亀井勝二即君が来てくれたといふことだ。それから二三人の客に面會してから床に入り、翌二十日の午前にまた早稲田へ行って、図書館の中にある美術史標本室に入った。これは私を記念するために、先年この大學が特に設備してくれたもので、ここに陳列してあるのは、私が貧乏の教員生活の財布の中から、血の出るやうな小銭をしぼり出して、買ひあっめたものばかりで、今では大學の一つの特色となって、外國人などにも見せられてゐるが、私にとっては、すさまじい牛生の想ひ出だ。
 この晩「トトヤ」へ小林秀雄君が中央公論の松下英麿君とやって来た。小林君は、昨年芝の伊皿子のある料亭で一度遇っただけの間であるが、今晩は、一足さきに福田雅之助君夫婦が来てゐたので、學生時代から猛烈な福田ファンであった小林君が、まづ狂喜、それからスポーツや文藝の談に花が咲いて、痛快な一夜となった。私は上京以来一度も酒瓶に手を触れなかったが、今夜ばかりは二杯だけ飲んだ。小林、松下の二人は歸る時に、同じエレヴューターを四五回も上ったり下ったりして、小林などは午前二時半にやうやく鎌倉の家へ着いたといふことだ。
 二十一日上野から急行で新潟へ向つた。
                『新潟日報』昭和二十六年十一月二十六日

『会津八一全集』 中央公論社

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