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批判的に読み解く歎異抄 №20 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

二、「異義篇」の批判的読解

3.「異義篇」に対する私(順誠)の見解

 しかし、果たしてそのように言えるのだろうかという疑問を私は持っています。特に、「誓名別信計」と言われる十一条・十二条・十五条・十七条が「造悪無碍」に対する批判として読めるかというのが私の提起する中心問題です。もしそこに「造悪無碍」に対する批判がなければ、『欺異抄』には「造悪無碍」に対する批判はないってことになります。一方、『歎異抄』には「専修賢善計」に対する批判の言葉はいっぱいあります。どこをとっても「専修賢善」に対する批判だらけです。そこで、このあとまず「専修賢善計」の条文の方は、一般に言われているように文字通り「専修賢善」に対する批判として読めるということを、簡単に確認します。そしてその後、「誓名別信計」という中心問題に移りたいと思います。

(1))専修賢善計
 「専修賢善計」については、十三条がこの系統の異義を代表するものであって、この命名自体が十三条に由来しているのだと思います。また、前回話したことからも、十三条が「専修賢善」を批判したものであることは明白だと思います。が、また、十三条については、もう一つ言わなければならない重要な問題が残されていますが、それは今日の話の総括的な意味を持つ問題なので、最後に申し上げたいと思います。従って、今ここでは十四条・十六条・十八条を取り上げておきたいと思います。

①十四条--一念滅罪
 まずこの条文の一部を読みますね。

 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪玉逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。

 これは異義の内容を説明した部分ですが、とにかく念仏して罪を消さなきやいかん、一念で八十億劫消えるんだったら十念でその十倍消えるということを主張する異義なわけです。ですから、これが多念義的なものだというのは分かりやすいですよね。努力すればするほど罪が消えるという話ですからね。
 また、この条文で「念仏もうさんごとに、つみをはろばさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ」などと言っていることからも、罪を消すために善行に励めということを主張する「専修賢善」の立場の異義であることは、すぐに分かりますね。だから、釈徹宗さんも、これは「自力であって、本来の他力の念仏からすでに外れてしまっています」から、この十四条には「専修賢善への批判があります」 と言っているわけです (釈徹宗前掲書、81頁)。
このように、十四条は文字通り「専修賢善」批判として読める条文だと思います。

②十六条--自然回心
 十六条についても最初の方だけ読みますね。

 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。

 この条文は要するに、腹を立てたり喧嘩したりといったことがあるたびに心を入れ替えて反省しなきゃいけない、ということを主張する異義に対する批判です。そういう異義に対して 「断要修善のここちか」と批判しているのですから、これが「専修賢善」に対する批判であることは、文字通りに認められることですね。ですから、釈徹宗さんも、この条文は 「罪を犯したときには、そのつど儀悔、回心しなければ往生できないという、専修賢善・多念義系の人たち」への批判であると言っています。この点では釈さんの見方に私は何の異論もありません。
 ところで唯円はこの十六条で、「一向専修の人においては、回心ということ、ただひとたびあるべし」ということを言っています。つまり、「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて」根本的に心を翻すというようなことは、生涯にただ一回だけのことであると言っているわけですが、ここで少し脱線的に触れておきたいことは、本願寺派(西本願寺)から離脱した高森顕徹が設立した親鸞会という新宗教団体がこの言葉を引き合いに出して、回心は人生にただ一回の出来事だから何年何月何日の何時何分に回心したと言えなきやいけないということを、最近ではあまり言っていないようですが、以前は頻りに強調していたことです。こういう問題はどう考えたらよいでしょうか。
 それから親鸞会と言えばもう一つ、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」(『蓮如上人御一代記聞書』、本願寺派『浄土真宗聖典』1253頁‥大谷派『真宗聖典』868頁)という蓮如の言葉がありますが、これを用いて木像の阿弥陀仏を本尊にしている本願寺を批判していたことを想い起こしますね。これに関連して、私が同朋大学で勉強していた頃のことですが、池田勇諦先生(同朋大学名誉教授)が、親鸞会のように「絵像よりも名号」と言われていることを根拠にして、あまりに「名号、名号」と教条的に実体化して強調しすぎることは、まるで「絵像よりも字像」と言っているように聞こえるというようなことを仰っていたことを思い出します。この親鸞会に対する見方がとても面白かったので、今でも覚えているわけです。が、こういう問題についても、今改めてどう考えたらよいでしょうかという意味で、余談的に申し上げたしだいです。本題に戻りましょう。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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