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渾斎随筆 №72 [文芸美術の森]

名誉市民について

                歌人  会津八一

 新潟市に「名誉市民」といふものが出来るといふこと、そして私もその中にはひるといふことが、年の碁から何度も新聞に出たので、私は、たいへんに気にかけて居る。それは是非それになりたいとか、もしもなれなかったら大變だなどいふのではない。私には、その「名誉市民」といふものが、何のことか解らないので、めつたなものにされては困るから、それを気にかけてゐるのだ。
「名誉」といふ字がついてゐるほどだから、わるいものではないだらうし、ことに私もかなり名誉心は強い方だから、市會の人たちが私に同情してやってくれるのなら、決して惑いことではないと思ふから、黙って頂いておいても、まちがひはないと思ふが、やはりいくらか気にかかる。それは、ここでいふ「名誉」といふ文字の意味がよくわからないからだ。
 私のつとめてゐた大學では、二十何年も前に、私のことを博士にするといふ話が持ち上った時に、私は、そんな場合には、いつもするやうに、固く辞退した。それは格別ほしくもないからであったのに、大學では私の恩師の坪内先生へお願ひをして、そのために私は熱海の先生のお宅まで呼びつけられて、さんざんに不心得を訓戒されたが、私はなかなか承服しなかった。けれども、われわれの大學としてその方が都合がいいのだといふお話もあったので、そんなら、およろしいやうにといふことにした。そこで、とうとう貰ふことになったが、私は東京に住んで居る間は、そんなものを名刺に刷ったりはさせなかった。けれども新潟に歸ることになってから、名刺には私の万からそれを入れるやうに註文することにしてゐる。それは、受取る人の方で喜ぶやうに見えるからだ。しかし東京あたりで近頃出版される人名群書や年鑑などには、いつのまにか、文學博士とか文博とかそんな風のことを、誰の上にもつけないことになった。これはたしかに一つの進歩にちがひない。
 博士になってから何年かたって、私も少し年を取ったので、老齢にして事に堪へずと辞表を出した。私の大學では七十歳を停年としてゐる。私が辞表を出したのはその七十より四五年前であったが、年来いくらかの功労があったとかいふので、その四五年をまけてくれて、特別に名誉教授にしてくれた。こんな風に私の方はおまけになってゐるのに、私からいへば八年も年上の津田左右吉さんは、戦争中にあの有名な歴史上の學説のために、ある人たちから、まるで不名誉のどん底のやうにいはれ、それがもとで法律にもひつかかつて、われわれの大學から一時は離籍して居られた。それを、あとでまた迎へ入れて、私と同時に名誉教授にしたものだ。
 けれども私は「名誉教授」といふものが、今以ってよくわからないので、考へてみるに、日本で名誉教授といふのは、英米では「エメリタス・プロフェッサー」といって、この「エメリタス」といふことばは、忠實に年季をすっかり勤め上げたといふ意味らしいから、回り回って律義な恪勤者といふことにはなるであらうが、その中に名誉といふ意味はかすかだ。そしてわれわれがその稱號を頂戴しても、それを謹明書代りにして、これから勤め先を尋ね歩くといふのでもないから、さしあたり私にはいらないもののやうに思へるし、それに、名誉といふのは誰の名誉になるのか。貰ふ方があまり名誉にしないとなると、くれる方が名誉にするのか。ますますわからなくなる。もともと「エメリタス・プロフェッサー」を讃した時のふとしたもののはずみから出て来た名誉であってみれば、貰ふ方にいくらかの名誉があるのだとしなければなるまい。とにかくこの言語は「完動教授」と詳す方がいい。さうすると、いくらかまぎらはしさが減る。しかしそれと共にことばの魅力は、すっかりなくなるであらう。
 そこで思ひ出されるは「オノラリー・タイトル」とか「オノラリー・デグリー」とかいふ言葉である。これはいはゆる「名誉博士」のことであるが、この「オノラリー」のついたのには「オノラリー・プレジデント」で名誉會長とか「オノラリー・メムバー」で名誉會員とか、そんなものが、まだいろいろある。これは決して停年まで勤め通したの何のといふのでなく、またこれを自分に贈った學校なり學會なりに、事務的にも経済的にも、何の拘束も義務もなく、そして何所に住んでゐても自由だ。これは恐らく、贈られる方の名誉のために、そして贈る方の名誉にもして両方を兼ねて贈られるものらしい。
 このほかに英語には「オノラブル」といふ形容詞があって、たとへば英国議會あたりでは、議員が互に呼び合ふ時には、敵でも味方でも、かならずこれを附けて呼ぶといふ。この調子で「新潟市民」たちにこれを附けるなら、みんなが「オノラブル・シチズン・オブ・二イガタ」となる。けれども何十萬といふ市民が互にこの敬称で呼ばれるならば、何のうま味もないものになるから、それをある特定の二三人の敬稱にするのほ面白くないであらう。
 そこで話は新潟の「名誉市民」に戻るが、この「名誉」は、もとより「エメリタス」でもなく、また「オノラブル」でもなく、やはり「オノラリー」でなければならないと思ふが、今度われわれ市民のために、新しく作られる「名誉市民」といふものは「オノラリー・プレジデント」といふ時の「オノラリー」の意味で、新潟の「シチズン」にそのまま當てはめるのか。どうか。それから私はまだ洋行をしたこともなく、海外の様子は、まるでわからないが、近頃仙臺市から始まって、長崎市でも、そんなものが出来たといふが、米國あたりに手本があるのを、そのまま取ったものか。または、仙臺や長崎が、めいめいに獨創的なところがあるのか。ないのか。そしてわれわれの新潟ののは、それらの先例にどんな関係があるのか。ないのか。その邊をよく知りたいと思ってゐる。
 私はまた年内に東京から鎌倉に出て歸って来た。鎌倉でも「名啓市民」を作るといふ話を聞いたので、その人選やそのほかのことを聞くに、小説家の小杉天外と詩人の蒲原有明の二人が候補に上ってゐるといふ。この鎌倉といふ所は、近年になってめっきり文化人が多く住むことになって、この二人のほかに、高濱虚子、長谷川如是閑、里見弴、久保田万太郎、川端康成、久米正雄、大彿次郎、小山富士夫などと、相当なものがたくさん住んで居って、随分壮観だが、里見以下は七十歳にはまだまだ遠いけれども、七十五歳の蒲原が入ってゐるのに、それより一つ上の長谷川和是閑や二つ上の高濱虚子が、あれだけの實力と名聾を持ちながら、なぜはひらないのか。これはたぶん高濱、長谷川の二人はまだ元氣で、生きて活動して居るからかもしれない。この標準によると名誉市民になるのは、死火山のやうなものと認められたことになる。その邊のことは私にはよくわからないが、とにかく小杉、蒲原の二人は、市から税金を免除されることになってゐるといふことであった。
 文化人の寫眞集を作るといふので、先日東京から、はるばると私の所へ撮りにやって来た土門拳といふ寫眞家は、それより先に仙臺へ行って、詩人の土井晩翠、細菌學著の志賀潔の二人を撮ったといって、その時の印象を私に話してくれた。それによれば、土井さんも相當に貧乏らしいが、志賀さんの方は、もつとひどいらしく、この世界的の大學者のお宅は、實に貧弱なもので、座敷の中には調度も器物も何もなく、床の間の白い壁のまんなかに、掛物がなくて、その代りに文化動章が懸けてあった。そしてそのご本人の眼鏡の一方のガラスがこほれて居るのを、紙切れを貼って修理して、それをかけて居られたといふことだ。仙臺市がこの二人に對して市税を免じてゐるか。またはいくらかの年金を贈ってゐるか。その邊のことは聞かなかったが、仙臺の飾にも誇にもなるといふ意味をこめて「名誉市民」などいふ立派な言葉をを用ゐて居るのなら、それくらゐのことをしても當然であらう。もしまた、それほどにするにも足らぬ人たちなら、「名誉市民」などと擔ぎ上げるのは、全く無駄であらう。  (十二月二十草ス)
                   『新潟新報』昭和二十六年一月一日

『会津八一全集』 中央公論社

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