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ケルトの妖精 №42 [文芸美術の森]

グーラグズ・アンヌーン

            妖精美術館館長  井村君江

 ゥェールズの山あいに、ひっそりと水をたたえ、青く澄みわたったシーン・ア・ヴァン・ヴアーハ湖がある。その湖では満月の夜になると、たおやかな乙女が金の小舟を金の樺で漕いでいく姿が見られるといわれていた。
 ある月の輝く晩のこと。ひとりの若者がこの湖の岸辺に立って水面を眺めていた。若者は牛たちに草を食ませながら丘を越えてやってくると、湖のほとりで仮の宿をとることにした。
 若者は夕餉のパンを取りだしながら、ふと湖のなかほどを見やった。月の光に洗われている湖面に人影が見えたような気がしたのだ。目をこらすと、美しい乙女が小舟の上で波打つ金の髪の巻き毛をとかしているのが見えた。
 その美しさに若者はたちまち心を奪われ、パンを食べるのも忘れて見とれていたが、やがて姿はしだいに薄れはじめ、いまにも消えいりそうな気配である。
 若者はあわてて、手にしたパンをさLだしながら、
「岸辺まで来てください。そしてわたしの妻になってください」と、大声で叫んだ。
 するとその声に驚いたかのように、乙女は若者のほうに顔を向け、
「あなたの持っているパンは固すぎますわ」
 と言ったきり、ふっつりと消えてしまったのである。
 若者は、夜の闇にときおり月光を返してきらりと輝く静かな湖面を、夜が明けるまで眺めていた。しかしその晩、乙女がふたたび姿を現すことはなく、若者は見るも哀れに樵悸して家に帰っていった。
 このようすを見て心配になった母親は、息子から話を聞きだすと、つぎの日は火を通していない練り粉のパンを持たせてやった。
 ところがその日も若者は、がっくりと肩を落として帰ってきた。
「これはやわらかすぎるそうだ」
 母親はつぎの日、こんどは軽く焼いたパンを持たせてやった。
 気を取りなおして三たび湖を訪れた若者が、そのパンをきしだすと、湖の乙女はようやく若者のいる岸辺に近づいてきた。そして、
「あなたの妻になりますわ」と、約束してくれた。それから、
「でも、わたしの願うことをけっして破らないと誓ってほしいのです」と言った。
 思いがかなって有頂天になっていた若者は、「なんでも言うことをききます」と誓った。
 それを聞くと乙女はきっぱりと言った。
「わたしの願いは、わたしを叩かないということです。もし、あなたがわたしを三度叩いたら、そのときわたしはあなたの前から消えてしまうのです。どうぞお忘れにならないでください」
 嫁入りにあたって、湖の乙女はたくさんの牛を連れてきた。その牛のおかげで若者の家は日ましに豊かになり、妻になった湖の乙女とともに、若者は幸せに暮らした。
 四年たったある日のことである。
 近所の農家で赤ん坊が生まれ、若者と妻も洗礼式に出席するために出かけていった。
 ところが、お祝いの席でみんなが楽しく語り合っていると、
「悲しみと苦しみがいっぱいのこの世に生まれてくるなんて、なんてかわいそうな赤ん坊でしょぅ」と言って、妻がとつぜん泣きだしてしまった。
 人間の運命が予知できる妖精の心の表れだった。若者はあわてて、
「そんな不吉なことを言わないように」と、周囲の目を気にしながら、妻を軽くこづいた。
すると、
「気をつけてね、あなた。いちど叩いてしまったのよ」
 と、妻は悲しげに言ったのである。
 それから幾月もたたないうちに、赤ん坊は死んでしまった。若者と妻は連れだって葬式に出かけたが、こんどはその席で妻が、
「赤ちゃんは、罪と苦しみから逃れられてよかった」
 と、うれしそうに顔をほころばせ、身体を震わせて踊りはじめたのだ。若者は困ってしまい、やめさせようとしてまた妻の身体を軽く叩いてしまった。
 そんなことがあって、しばらくのちのこと。若者と妻は村の老人と若い娘との結婚式に招かれることになった。
 そのお祝いの席で妻は、こんどはワッと泣きだして、
「お金のためだけで、愛してもいない老人に嫁ぐなんて残酷だわ」
 と、叫んだ。
 人々は驚きあきれた。若者はなんとかその場を静めようと、ちょっとだけ妻を叩いた。すると、
「三度めよ、あなた」
 と、つぶやいたかと思う間に妻の姿は消えてしまった。
 驚きあわてた若者は妻を探してあの湖まで行ってみた。すると、妻が連れてきた牛の最後の一頭が湖のなかに消えていくところだった。
 妻となった乙女は、グーラゲズ・アンヌーンといって、湖に住む妖精だったのである。

◆ 妖精と人間が結婚するには、「約束を守りとおさなければならない」というタブーがある。叩いてはいけない、鉄でふれてはいけない、どこへ行ったかたずねてはいけない、などいろいろあるが、 タブーを犯してしまうと、妖精との結婚は悲劇に終わるのである。
 それにしても妖精には、人間の運命や未来が見えるようだ。妖精という言葉のなかには、ラテン語のファートム(運命)という意味も含まれるというが、うなずける話である。


『ケルトの妖精』 あんず堂




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