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多摩のむかし道と伝説の旅 №48 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        ー伊奈の石工が江戸と往還した伊奈道を行くー5

                原田環爾

48-1.jpg 元の交差点「油平駐在所前」に戻り旧道を東へ進むと、道標「南秋留小入口」で睦橋通りに復帰する。通りを進むと程なくシャトレーゼ店のある辻に来る。辻を右に折れるとすぐ左に入る小道がある。それが伊奈道の旧道だ。旧道に入ると畑の広がる鄙びた里道の風景に変貌する。雨間の八雲神社の小祠を左にやり、昼なお暗い雑木林の里道をうねうねと進むと南北に走る観音坂と呼ばれる下り坂の車道に出る。車道を横切ると再び里道となる。路傍の地蔵を右にやり長い下り坂をだらだらと下って行くとやがて雨間の古刹地蔵院と称する寺の門前に来る。地蔵院は臨済宗建長寺派の寺48-2.jpgで山号を龍雨山と号す。永享10年(1438)の開創で、寺には元応2年(1320)と貞和4年(1348)造立の市指定有形民俗文化財の板碑が安置されている。また境内には樹高20m、幹回り4.5mのカヤの巨木があり、本堂裏の墓苑には樹高30mのカゴノキ(ナンジャモンジャの木)がある。本尊は地蔵菩薩であるが、養蚕の神で 勢至菩薩の化身という金色姫像もあるという。地蔵院を後にして秋川の畔の畑風景の広がる小道に入る。この道は羽村方面から秋川を渡って鎌倉へ向かう鎌倉道でもある。鎌倉道を北に向かうと「待合坂」とも「ごぼう坂」とも呼ばれる上り坂にさしかかる。坂を上り切ると再び睦橋通りに復帰する。48-3.jpgそれにしても「ごぼう坂」とは奇妙な名である。それにはこんな話が残されている。明治の初めの頃、雨間の賭博場に飯能から「ごぼう」という男がやってきた。男はいかさま賭博で村人を困らせていた。これには雨間村の甚八は我慢がならず、雨間の渡しで酒を飲ませたうえ坂下で48-4.jpg刃物で刺した。ごぼうは地蔵院に逃げこんで命は助かったが、一方甚八は牢屋送りとなった。しかし模範囚であったので刑期を2年短縮して出所し、その後は畑を耕すなどして穏やかな生活を送っていた。村人の面倒見もよかったので慕われるようになり、甚八に惚れ込む娘もあったが、前科者ということで自ら断っていたという。
 復帰した睦橋通りを東進すると交差点「小川」に来る。左角地に小さな熊野神社が鎮座している。創建年代等は不詳であるが、宝永5年(1708)修復、寛政6年(1794)再建の棟札が残されている。境内には樹高19m、幹周り6.9mという欅の御神木がある。なお小川の名は遠い昔この辺りを小川郷といって優良な馬を産する小川牧があったことによる。武蔵国には国の勅牧が四牧置かれていたが、その一つが小川牧であった。坂東の馬は軍馬として大変重宝され、ここで飼育された馬は毎年京都の朝廷に貢納されたという。牧の管理は牧監あるいは別当が行い、かれらは勢力を蓄えてやがて武蔵の武士団へと成長してゆくことになる。
48-5.jpg 小川の交差点を過ぎると緩やかな長い下り坂となる。沿道左手に弁天屋と称する そば・うどん屋がある。その筋向いの路地を右に入り50mも進めば法林寺と いう古びた禅寺がある。この地域には数少ない臨済宗南禅寺派の寺で、山号を神應山と号す。延喜12年(912)開創という古刹である。境内には鐘楼、本堂があり、奥の墓苑横の細道を抜けると秋川を見下ろす断崖絶壁の上に出る。蛇行する秋川の流れと、その南岸に横たわる秋川丘陵の風景が殊のほか素晴らしく一見に値する。なお、山門前にある赤松の巨樹は市の天然記念物に指定されている。 

48-6.jpg ところで小川の法林寺にはこんな伝説が残されている。昔、法林寺に令山という坊様がいた。ある日一人の美しい娘が寺を訪ねてきた。娘は10日程前から体が痒くて48-7.jpg夜も寝られず、坊様に助けを請うてきたのだ。坊様は経をあげ、娘にこれから21日間毎日寺に参るよう告げた。娘は礼を言うと寺を出て行き、舞知川まで来るや突然川に飛び込み、竜となって二宮方面へ去って行った。実は娘は二宮神社境内の池に棲む竜だったのです。以来竜は令山の指示通り毎日舞知川を下っては、娘に化けて寺に通った。そして21日目、体の痒みはすっかりとれた。娘はお礼をしたいと言うと、坊様は寺の境内に水が欲しいと言った。するとたちまち娘は竜の姿となって二宮方面に飛んで行った。それから数日後寺の境内にどこからともなく清水が流れてきたという。(つづく)

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