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批判的に読み解く歎異抄 №13 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

(2)「薬あればとて、毒をこのむべからず」(親鸞の残した課題?)

 ところが、善鸞は親鸞と違うことを言ったから、善鸞の方が義絶されることになったわけです。その時の善鸞の立場についてはいろんな説があるんですけれど、通説的には「造悪無碍」を治めるために「専修賢善」に立っていたとされています。私もそう思いますが、その根拠は、善鸞は十八願を「しぼめるはな」と言ったということが、親鸞から善鸞に宛てた次のような手紙に書いてあることです.

 往生極楽の大事をいひまどはして、常陸・下野の念仏者をまどはし、親にそらごとをいひつけたること、こころうきことなり。第十八願の本願をば、しぼめるはなにたとえへて、人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことに誘法のとが、また五逆の罪を好みて、人を損じまどわさるること、かなしきことなり。ことに、破僧の罪と申す罪は、五逆のその一なり。(本願寺派『浄土真宗聖典』755ページ、大谷派『真宗聖典』612ページ)

 この「第十八願の本願をば、しぼめるはなにたとえ」たという意味は、「人は念仏だけでは救われないと言った」という意味だと思うんですね。つまり、善鸞は「専修賢善」に立ち、しかも守護・地頭のような在地の権力者(「余のひとびと」本願寺派『浄土真宗聖典』772】773ページ、大谷派『真宗聖典』576-577ページ)とつるんで「造悪無碍」を治めようとしたのですが、それは親鸞から見ればやっぱり禁じ手だったってことです。だから、親鸞は善鸞を義絶せざるを得なかったのだと私は思います。
 例えば大学紛争華やかなりし噴、凄いぶち壊しなどが起こったりしたじゃないですか。しかしそれをどうやって止めたらいいかという時に安易に警察権力を導入してよかったんですか。安田講堂ではそうしたんだけど、警察権力を導入することは大学の自治を潰すことになるじゃないですか。自治的に治めていくべきにもかかわらず権力を引っ張り出すことはまずいんじゃないかと、そういうことにちょっと似ていると思うのです。つまり、「造悪無碍」が目に余るからといって権力に頼って治めようとしたり、念仏だけじゃダメだよと言ったりするのは、親鸞から言えば禁じ手なのだから善鸞を義絶したんだと思うのです。
 ただ「専修賢善」の問題は論理的には簡単です。念仏以外のものの方がよいと言ったら、それはもう専修念仏の教えと違うのはすぐに分かるから、論理的には分かりやすいです。しかし、「造悪無碍」の問題はもっと難しいです。だからこそ、親鸞が心を砕いたのはこれをどう治めるかだったのです。「専修賢善」に訴えて念仏以外のものを持ってくることなく「造悪無碍」を治めるには、念仏の法自体にある種の倫理道徳が内在化していないといけなくなるということがあると思うんですが、果たしてそれが上手いこと内在化されているかどうかが非常に大きな問題だと私は思っています。
 この間題を考える場合、或いは、「唯除五逆誹誘正法」という十八願の但し書き(抑止文)は念仏の中に道徳が含まれていることを示すものかもしれませんね。そうするとまた、浄土教の信仰が「我が身は現にこれ罪悪生死の凡夫…」という「機の深信」として示されることは、別に念仏以外の諸行に頼らなくても、本願念仏の門をくぐること自体が罪悪を「罪悪」として知ることであるという意味を持っていると言えるようにも思いますね。
 が、そうだとするならば、そのような信心を得て救われた者は、救われた後どうなるのでしょうか。「悪人正機」(悪人が一次的救済対象である)と言う場合、救済された後の「人」は、「悪人正因」(悪人になることによって救われる)同様、相変わらず「悪人」のままであってもよいということになるのでしょうか。親鸞の場合、「悪人が救われる」ということの意味が、仮に罪悪が許容されるということだとしても、それはあくまで念仏入門以前に「罪悪」と知らずになしてしまったことならば許容される、という意味だとするならば、たとえ救われる前の時点では「悪人」であっても、救済後はもう悪人ではなくなるということになるのではないでしょうか。「仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをぽいとひすてんとおぼしめすしるLも候ふべLとこそおぼえ候へ」、と親鸞が手紙で言っていることは、「悪人のままではいけない」と言っているように思われるのですが、どうでしょうか。そして、もし「悪人正機説」の趣旨が救済後も相変わらず「悪人」のままでよいということであるならば、親鸞はもはや「悪人正機説」を「強調した」人でさえなくなるのではないでしょうか。
 ともかくこうした消息が書かれた時点においては、親鸞にはこの課題は完全には解決されていなかったのではないでしょうか。そこで、その解決は後世に託されたと考えられるのではないでしょうか。例えば蓮如の『御文』に何度も繰り返される掟などはやっぱりそれを課題として担ったものだと思われますし、現代に至ってもこれをどう考えるのかは我々自身の課題として残っているのだと思うのです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

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