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批判的に読み解く歎異抄 №10 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

           立川市光西住職  寿台順誠

(1)宿業の問題

②非仏教性
 ところで、「宿業」という言葉は、親鸞自身は使っておりませんね。これは『欺異抄』に出てくるだけです。また、仏教本来の考え方からいっても、これは仏教思想じゃないと言われています。
 一例として、これは大谷派の人ですけれど、仏教学者として『倶舎論』の権威と言われている桜部建さんが、大谷派関係の勉強会の講義で、「宿業」は仏教思想ではないと仰っています(桜部建『業・宿業の思想』平楽寺書店、2003年、37-39ページ、71-87ページ)。それによれば、仏教の「業」には二つの原則があって、一つは「善因楽果・悪因苦果」で、もう一つは「自業自得」です。が、まず「善因楽果、悪困苦果」とは、善いことやったら楽という巣を得るし、悪いことは苦に帰結するということで、これは過去の業(困)が規定するのは現在の苦・楽(果)であって現在の業ではない、つまり現在の行いがすべて過去の行いによって決定される運命論ではないということを意味します。従って、「『欺異抄』がいっていることは現在やっている行為(つくるつみ)を過去の行為(宿業)の結果として考えているように聞こえるから、そこはふつうの業の考え方とは違っている」というわけです。
 そしてもう一つが「自業自得」ですが、この原則から言えば、「親の因果が子に報い」、すなわち親がやったことの報いが私に来る、などということは言えません。業論が運命論ではないことを示す意味で、それは現在を規定している過去の業(行い)だけを問題にするものではなく、未来を規定する現在の業をも問題にするものであるとも言われていますが、「自業自得」とは現在自分がやっていることが未来に何をもたらすかを熟考させるものだと言えるのではないでしょうか。
 以上のように、『歎異抄』の「宿業」は仏教思想じゃありませんってことを桜部さんは仰っているわけです。

③差別性-実際、運命論的な宿業論は、種々の差別の正当化に使われてきた。
 さて次は差別性です。
 実際、運命論的な宿業論は、様々な差別の正当化に使われてきました。「前世の宿業によって被差別部落に生まれた」というような説教は、現実にかつて浄土真宗の説教師がしていたと言いますし、ハンセン病は「業病」だと言われたわけですね。まさしく差別を正当化する論理として使われたのです。そういうことを一つ思い浮かべるだけでも、「宿業」なんて言葉は安易に使えるものではないのです。

④論理自体の説得カ―千人どころか一人も殺せない理由として、果して「宿業」は説得力があるか? 人を殺せないのは、「殺人は窓である」という規範が共有されているからではないか?「害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」というのは、本当にそう言えるか? (一人ならいざ知らず、百人・千人も殺すことは、加害の意識がなければ、到底無理なのではないか?)


名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

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