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論語 №103 [心の小径]

三二二 子貢(しこう)問いていわく、いかなるをこれ士と謂(い)うべきか。子のたまわく、おのれを行うに恥あり、四方に使いして君命を辱(はずかし)めず、士と謂うべし。いわく、敢えてその次を問う。のたまわく、宗族(そうぞく)孝を称し、郷党(きょうとう)弟(てい)を称す。いわく、敢えてその次を問う。のたまわく、言えば必ず信、行えば必ず果(か)、コウコウ然として小人なるかな。そもそも亦(また)以て次と為すペし。いわく、今の政(まつりごと)に従う者はいかん。子のたまわく、噫(ああ)、斗ソウの人、何ぞ算(かぞ)うるに足らんや。

                法学者  穂積重遠

 「士」は士農工商の士である。当時の封建的思想から、士を指導者階級として特に問題にしたのである。ところで近ごろある農村人が、今までは士農工商といったものだけれども、今度は士がなくなったのだから、農が一番上だ、といばったとのことだが、それこそ正に封建的階級思想だ。今始ったことではない、士農工商の階級は明治維新とともになくなったはずであって、も一つ言えば、今日ではすべての人が士なのである。それ放『論語』で「士」とか「君子」とかいうのは、今日ではすべての人にあてはまる。「斗」は木のマスで十升〔一八リットル〕入、「ソウ(竹冠+肖)」は竹のミで一斗二升〔二〇・六リットル〕人だという。「コウ(石+坙)」は小石。

 子貴が、「どういう人物を士と申すべきでありますか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「士たる者は恥を知るべし。すなわち自身の言行について、いやしくも恥ずべきことを言わず、なさざる操守がなくてはならぬ。さらに士たる者は有為なるべし。すなわち四方の外国に使節としてよく任務を全くし、君命をはずかしめず国威を揚げるだけの腕前がなくてほならぬ。この徳とこの才とがあって、はじめて士というべきである。」「それはなかなか大したことでござりますが、そこまでゆかなくては士といえないのでしょうか。第二流の士はありますまいか。それを一つうかがいとうござります。」「士たることの根本は孝悌(こうてい)だから、親類中から孝行者とほめられ、村中から兄弟思いと評判されるような人物なら、たとえ才能は足らずとも、第二流の士といって宣(よろ)しい。」「今一つ推してうかがいますが、その次ぎはいかがでござりましょうか。」「いったん言ったことは必ず実行を期し、やりかかったことは必ずしとげようとつとめる。見はからいがなく融通のきかぬコチコチした小人物ではあるが、ともかくも第三流の士としておこう。」そこで子貢が、「それでは現在の諸国の当局者たちはどうでござりますか、士と申して掛るべき人物がおりましょうか。」とおたずねしたら、孔子様が歎息しておっしゃるよう、「ああ、マスやミではかるような小人物ばかりで、かぞえるねうちもないわい。」

「斗ソウの人」を狭量小規模の人物と解するのが通説だが、十升入り、一斗二升入りといえばマスやミとして小さい方ではなく、「算うる」とあるところからも、十把ひとからげの意味と解した方がよさそうだ。

三二三 子のたまわく、中行(ちゅうこう)を得てこれに与(く)みせずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みてて取り、狷者は為さざる所あり。

 古証に「狂者は、志極めて高くして行掩(おお)わず、狷者は、知ること末だ及ばずして守ること餘(あま)りあり。」とある。

 孔子様がおっしゃるよう、「行が中正を得たほどのよい人物を得てこれと共に通を行いたいものだが、現在ではなかなかさような中庸の人物を得がたい故、もし中行の人を得られないならば、律義一遍、優柔不断の人物よりも、むしろ強者、狷者を得てこれを仕立てたい。強者は進んで善を取らんとする気魄があり、狷者は断固として不善をなさぬ節操があるから、見込みがある。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

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