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いつか空が晴れる №88 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
          -Cool  Struttin―
                   澁澤京子

 東急本店の裏には、代々木に抜ける道があって代々木公園までずっと商店街になっている。この道のはずれにおいしいエッグタルトを売る店があるので、雨の中、黙々と道を歩く。
時々、いい映画のかかるアップリンクがあり、詩集を置いた洒落た本屋があったり、カフェが立ち並ぶこの通り、最近は(裏渋)と呼ばれて人気があるそうだ。道玄坂にあったジャズ喫茶「スウィング」の名前を引き継いだジャズ喫茶もこの通り沿いにある。

かつての「スウィング」ではかかっているレコードのジャケットが恭しく掲げられていて、特にブルーノートのジャケットデザインはセンスがいいものが多く、好きだったのは、ソニー・クラークの『クール・ストラッティン』のジャケット。
ヒールを履いて歩いている、スラっとした女の足だけが映っているジャケットで、そのカッコいい脚の写真だけで(いい女)であることを想像させるもの。

昔のジャズ喫茶では、真ん中から分けたロングヘアの暗い感じの若い女の子が、かっこよく煙草を吸っていたりしたものだ。(たいてい、フォークロア調のインドのブラウスにジーンズ)
ティーンエジャーの、自意識の強い年頃の私。別に悩みもないのに暗い深刻な顔付で、煙草を吸っていた。(本人はカッコいいつもり)人生に倦んだような感じでいるのが大人っぽいと勘違いしていたのだ
ちょうど、永井荷風『墨東奇譚』や滝田ゆうの『寺島町奇譚』を愛読していて、荷風を真似て向島や曳舟、浅草あたりの下町を、その頃よく散歩した。
『墨東奇譚』の木村壮八の挿絵も好きだった。いつか所帯を持ちたいと夢見てもかなわず、男に捨てられたり病死してしまうお雪のような赤線の女たちが、当時あの辺りにはたくさんいたのだ。荷風は、世間から蔑まされ日陰に追いやられ、誰にも顧みられずにひっそりと短い生涯を閉じてしまうようなそういう名もない薄倖な女たちを愛した。

・・たとえ品性上の欠点が目に見えても、必由来があるだろうと、僕は同情を持って之を見ようと努めている。人生社会の真相を透視する道も亦同情の他はない。観察の公平無私を希うのあまり、強いて冷静の態度を維持することは却って憶断の過に陥りやすい。・・『申訳』永井荷風

荷風という人は女というものをその素性から性格まで実によく観察していた人だと思う。
冷静な態度よりも「同情」や「共感」のほうが対象がよく理解できる、というのは人間の観察に限らず様々な物事にもあてはまるのじゃないだろうか。男でも女でも、交友関係でいろいろな種類の人間を知っている人のほうが人に対する洞察と勘は優れている人が多いような気がする。

私の祖父は、永井荷風を尊敬していた。荷風のような粋でお洒落、個人主義を徹底的に貫く生き方は明治の文学青年にとっての憧れだったのかもしれない。
『墨東奇譚』の冒頭で、主人公が変態と間違えられて警察に捕まるシーンがあるけど、荷風という人は本当に変な人であったらしいし、ケチだったのは有名な話で、お香典に今の金銭感覚でいう500円くらいを皆の前で堂々と出し、周囲の人間を唖然とさせたこともあったらしい。(つまらない付き合いで無駄な出費をしたくなかったのだろう、なかなか勇気がないとできないことだ。一方で寄付金を出すときは惜しまなかったというからケチというより合理主義者だったのかもしれない)決して人に阿らず、同調圧力にも負けず、他人からどう思われようと堂々として超然としているところがすがすがしいし、死ぬまで不良を貫くのって、なんてかっこいいのだろう。(いわゆる良識的な市民が必ずしも倫理的な心の持ち主とは限らないし、また、不良が非倫理的とも限らない)
荷風は、都会で育った子供独特の早熟さや露悪趣味なんかを持っていて、同時に抜け目のない女に騙されてしまうような、お坊ちゃん育ちの人の好さも持っていた。
荷風の権威・権力を嫌う反骨精神と、洗練された趣味が当時、十代の反抗期真っ盛りの私にはとてつもなく魅力的だった。(荷風は憧れの下町に住み始めるが、隣家のラジオの騒音に耐えられず、日記に悪口を書いている。人間ってそういう矛盾した生き物なのだ・・)

美意識の発達した人間にとって、権威や肩書ほど余計なものもなくって、仰々しいものや重々しいもの、構えたり、もったいぶったりするものを嫌う。
自然なもの、ユーモアのあるもの、軽妙ではかなく消えてしまうようなものが美しいのであって、私は若い時に背伸びして愛読していた荷風から、弱者に対するまなざしというものを、美意識とともに教わったような気がする。
荷風の美意識は、近代的な効率性、功利性とは正反対の、無駄なもの、役に立たないもの、忘れられようとしているものを愛するのだけど、情緒というものはそうした無駄なものから生まれるのかもしれない。情緒は決して人為的にこしらえたり操作できるようなものではない。それは人の持つ雰囲気というものが、その人の性格や無意識から、どうしようもなくにじみ出てくるのと似ている。

「役に立つ・立たない」のモノサシがまかり通り、功利性だけを追求する世の中では、遊びのないつまらない人間が増えるだけだろうし、ホームレスを襲撃して殺したり、障害者の施設で大量殺人を犯すような殺伐とした心の人間が育っても、決して不思議でもなんでもないのじゃないだろうか?

私のあてもない下町散歩によく付き合ってくれたK君は「スウィング」の常連。
K君は麻布に住んでいて、夏になると隣家の邸宅の大きな庭のプールに、夜中に忍び込んではこっそり泳いでいたという話を聞いた。荷風がよく散歩していた当時の山の手というと、(麻布、高輪、小石川、麹町、四谷などのお屋敷町)で、私が住んでいる渋谷は、荷風の頃は、まだのどかな東京の郊外だった。荷風は時折、三味線の音を聴きながら、私はK君のジャズと映画の薀蓄話を聞き流しながら、下町を歩き回った。
荷風がインチキ西洋風として嫌った、耶蘇風の学校の建物も、銀座の西洋風の赤レンガの建築物もすでに今では「レトロ」な建物になっていて、東京の変貌は荷風の頃よりもさらに激しくなっている。
つい100年以上も前は、丸の内も三菱ヶ原と呼ばれる大名小路の跡地だったというから、驚くべきことだ。

かなり暑い日だった。K君、N君、O君と私の四人で曳舟を歩いていた。私以外の三人は浪人中なのに受験勉強はまったくしないで、ジャズの話ばかりしていた。
夏の陽射しが白く照り付けた「鳩の町」のその界隈には、ところどころに昔の遊郭をしのばせる丸窓が残っていて、突然の夕立に、お雪が浴衣の捲れたすそから白い脛を見せながらどぶ板をまたぐ路地はこういう感じのところだったのだろうか、と私は空想しながら歩いていた。
O君がビールを飲みたい、と言い出して、私たちは中華料理屋のようなガラス張りの店に入った。
ガランとした素っ気ない感じの店で、クーラーが寒いほど効いていた。メニューの種類の少ない店で、ビールのおつまみには豚足しかないという。私は生まれてはじめてそこで豚足というものを食べた。はじめて食べた豚足は、歯ごたえがあって淡泊で、見た目より美味だったのを覚えている。


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