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渾斎随筆 №59 [文芸美術の森]

私の歌碑 2

                歌人  会津八一

 この二つのほかに、今でも東大寺の大佛殿の廻廊の東に、長径八尺もある卵形の大きな石が一つ轉がつてゐる。これは戦時中に、この寺で聖武天皇大佛鋳造立願千二首年祭をやった時に、時の華厳宗管長の懇請で、私が書いた一首の歌、それは
   そそり立つ甍の鴟尾の天つ日に輝く
   なべに國は栄えむ                
といふのを彫って、高さ七尺の基壇の上に立てるといふ企畫で、生駒山の上から黒牛二頭で引き下ろしたものだといふが、戦争の最中で職人もなく、人足もなく、そのまま今も同じところに轉がつてゐるのであるが、私が總平假名で書いた最初の原稿は、一字々々が一尺近くもあって、これこそ假名の碑としては、大さでは古今未曾有のつもりであったが、その原稿は二三年前に、この寺の客殿の火災の時に焼けてしまった。そこで今度は私の古稀の記念として、この仕事を復興して
   大らかにもろ手の指を開かせて大き
   佛はあま足らしたり
といふ、これこそこの寺の巨像を詠み得ていささか会心の作とするものを、彫りつけて立てるといふことになった。
 これまでは奈良地方の部であるが、早稲田に建てるといふのは
   昔人聾も朗らに卓打ちて説かしし面わ
   見え来るかも                      
といふ一首、これはある日校庭に立って學生時代のことを、いろいろ思ひ出して作った歌の一つで、ここで「むかし人」といふのは、私が教を受けた坪内先生のことだ。けれども今度この歌を石に彫りたいといひ出したのは私ではなく、發起人の人たちである。師弟の間柄も昔と違って来たし、何所の大學でも、空気が荒く冷たくなって来たのに、私が先師を想って詠んだ歌を、私の弟子たちが特に選んで石碑にするといふことは、今時まことに奇特の至りといはねばならない。さうした弟子たちが教師になれば、またその弟子たちも、こんな気持を持つかも知れない。ことに私立の學校として、かうした精神は大切だと、私自身が大に感動して、これは是非完成して貰ひたいものと、特に強く望をかけてゐる。
 最後に、新潟は私の故郷であり、恐らく終焉の地となるのであらう。けれども一生の大部分を東京で暮した私には、新潟の歌は割合に少い。その少い中からでも、いかにも新潟らしく、そしてまた私らしくもあるやうな歌を選んで、小さい石に彫って遺したい。その歌と場所とは發起人の人たちと相談中だ。いづれ私の亡くなった後に、かねて私の書いたものを讀んだりして、かすかにでもその記憶のある旋人などには、いくらか興味のあるリマイソダーとなるであらう。
                                 
 墓とか記念碑とかいふものは、自分が亡くなってから、建てて貰へるほどの人なら、後の人たちが建ててくれる。それを生前に、しかも自分でかれこれと気を揉むのはをかしいかもしれないけれども後の人たちがあまりいいものを建てたためしがない。奈良の法隆寺には、私の俳句や和歌の師、正岡子規先生の句碑「柿くへば」といふのがあるが、これなどは、もと原稿紙か何かそんなものに、小さく書いてあった文字を引き伸したものと見えて、筆つきなどもまことにお粗末な彫り方だ。どうせ變なものを後で建てられるくらゐなら、生きてゐるうちに、少しでもいいものを作っておく方が、自分の藝術に封して忠實といふべきだ。ことに私などのやうに書道の歴史にいくらかの趣味を持って、中國や日本の、歴代の石摺りを集めて、年来研究をして来たものには、ここにいろいろと大切な問題がある。それにまた、もし萬葉集あたりの作者、一人でも二人でも、自分で歌を書いて石に彫らせたものが、今日何虞かから出て来たとしたら、どんなに面白い、そしてありがたいことでもあらう。奈良の薬師寺の佛足石歌碑といふものは、作者が書いたといふのではないが、同じ時代の人が書いたには相違ない。そこがほんとにありがたい。それが作者自身の筆ならどんなに意味のふかいことであらう。私などの歌でも、石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも傳はる。それが上手だとか下手だとかいふのでなく遣りさへすれば、だんだん値うちが出て来るにちがひない。歌も字もへたくそだといつたら、ますます面白いかも知れない。だからいよいよ作るなら、いろいろの條件をよく考へて、出来るだけ忠實に作っておきたいと思ふ。
                   『新潟日報』夕刊昭和二十五年一月一日


『会津八一全集』 中央公論社


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