SSブログ

渾斎随筆 №58 [文芸美術の森]

私の歌碑 1

                 歌人  会津八一                          

 私はこの正月で、もとの算へ方にすると、七十歳になるといふので、友人たちが賛起して、胸像を作って早稲田大學で私の記念室と名のついてゐる部屋に据ゑ、そのほかに歌碑を、同じ早大の庭と、奈良の大佛殿の前と、新潟と、三ヶ所に建てるといふことになった。新潟に生れ、早稲田で學び、ことに年来奈良のことを勉強して、その間にいくらかの歌を詠み、おしまひにまた新潟へ歸って来て、わがままの一生を終つたといふことの記念になるであらう。

 その歌碑といふのは、石碑に歌を彫ったもののことだ。こんなものを作って建てるといふのは、中國で古い頃からのやり方で、それをこちらで眞似たのであるから、彫るものは漢文でなければならないもののやぅに、今でも思ひ込んでゐる人が多い。今の時代は漢字や漢文をあまり大切にしてゐない。そのくせ石碑となると漢文に限るといふ。その不透明な不徹底なところが、いつもの日本人の態度であるから、私のための歌碑は、漢文でなくて歌を彫るのだと聞いて、失望する人もあるかもしれない。けれども私の記念なら私の歌でなければならない。そして私がそれを自分の筆で書いたものであれば、さらに記念の意味が強くなるわけだ。發起人たちはそのつもりでゐるらしいから、あとで驚かないで貰ひたい。
                                       
 實はこれから建てるといふ三つが無くとも、私の書いた歌碑は、今までにもう奈良地方には二つ立ってゐる。その一方は新薬師寺の境内で、香薬師といふ霊妙な佛像をまつってゐた小さいお堂の前にあって、それには
   近づきて仰ぎ見れども御傍の見そな
   はすともあらぬ寂しさ
といふ歌が彫られてゐる。建てた人はもとの中央公論社長の嶋中雄作君であった。これは「香薬師」といふ有名な佛像を詠んだのであるが、この像は、碑を建てると間もなく盗難にかかって大騒になったので、賢者で絵かきで、近頃は二十の扉といふものの名人になってゐる宮田重雄君は、その頃ある新聞の漫畫にそれをかいて、私のさきほどの歌の下の句を「おはしますともあらぬ寂しさ」と作り換へて書きつけたものだ。するとまた吉井勇君は、ある雑誌で
   香薬師もとのみ堂に歸れよと秋州道人
   歌よみたまへ
と活撥な歌を發表したりした。しかし像は今以て出て来ないので、私の歌碑が、この像のかねての存在のかたみになるかも知れない。
 いま一方は、私が若い頃同じ奈良の春日野で詠んだ
   春日野に押し照る月の朗らかに秋の                              
   夕となりにけるかも
といふ歌を彫ったもので、これは私のポケットマネーで造らせた。私はもとより春日野へ立てるつもりであったが、その頃は、やかましい規則があって、懸廰が許可しない。それで私は、東大寺の観音院の庭へ、いつまでといふ目あてもなく寄留させておいた。すると奈良の寺々を題材にした繒で近頃一時に名を上げた杉本健吉君は、たしか一昨年の秋、この碑を局中にして萩の花の咲いた観音院の庭を、大きな油繒に書上げた。また昨年の夏は、私の古い友だちの柳田國男君は、奈良から手紙をくれて、自分は久しぶりに大和巡禮をして、おしまひに東大寺へ立ち寄って、君の碑と並んで記念撮影をやったといふことであった。
 それで私も、あの碑は、あのまま、あの庭でだんだん苔にでも埋もれるのであらうかと半分諦めてゐた。すると最近に水谷川忠麿君、これは亡くなった近衛文麿の弟で、もとは男爵か何かであったが、今は春日神社の宮司になって奈良にゐる。この人からの手紙に、今度春日野は神社の所属になったから、君が承諾さへしてくれるなら、あの碑をば、いよいよ君の素願の通り、観音院から春日野へ移したいといふことであった。私はこれを見て、時さへ来れば、何事もこんな風に行くこともあるものかと、大變にいい気拝になって、萬事よろしく頼むことにした。するとまたあちらから、同じ春日野でも、雪消の澤といふところの大きな樟の木の下に假に建ては建てたが、それでいいか何うか、出来るなら自分でやって来て、ほんとに位置をきめてはしいといつて来た。けれども、こちらは老體ではあるし、だんだん寒くはなるし、いづれ四月の初ころに見に行くつもりでゐる。(この項つづく)                        『新潟日報』夕刊昭和二十五年一月一日


『会津八一全集』 中央公論社     


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。