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多摩のむかし道と伝説の旅 №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩周辺の義経伝承路を巡る 1

               原田環爾

 南武線稲田堤駅の南側の多摩区菅の丘陵地帯や、丘陵を越えた麻生区百合ヶ丘周辺には何故か義経伝説を伝える旧跡が多く見られる。また百合ヶ丘の先の柿生方面には義経の家臣亀井六郎が住した亀井城があったとの伝承もあり、これらをつなぐ義経伝承路が語られている。歴史を紐解けば源義経は兄頼朝の元で源平戦で活躍し、我国で初めての武家政権である鎌倉幕府樹立に大きな貢献を果した人物である。にもかかわらず頼朝の勘気に触れて追われる身となり、ついには奥州平泉で弁慶とともに落命するという悲劇の英雄である。故に日本全国津々浦々に無数の義経伝説が残されている。多摩周辺だけでも20件以上の義経及び関連する伝説が残されている。下図に東京、神奈川、埼玉の主要な義経伝承地、及び関連伝承地の分布を示す。とりわけ川崎市北部の多摩区、麻生区には多く見られ、多摩では府中、日野、八王子、町田に見られる。

義経1.jpg

 それにしても東京多摩の近郊になぜこんなに多くの義経伝説が残されているのか、不思議なことである。一説には義経が頼朝の平氏打倒の旗揚げに呼応して奥州から鎌倉へ馳せ参じた折に通った道筋であったといい、またある説では鎌倉に参陣してから一の谷の合戦に出陣するまでの3年間に、各地の武士団へ平氏打倒の協力を取り付けるために行脚した道筋であったともいい、あるいはまた頼朝に追われて奥州平泉へ落ちて行く時に通った道義経1-2.jpg筋であるともいう。いずれも伝説であるので真偽のほどは定かでない。以下に義経の生誕から終焉に至るまでの足跡を追いながら、多摩周辺に伝わる伝説のいくつかを示す。
 まず幼少期の牛若と称した頃の伝説として、八王子の唐木田に父義朝の首塚とも呼ばれる塚がある。(図⑤)義朝の御持僧円浄坊が葬ったと伝える。ついでながら八王子別所の連生寺(図⑪)は円浄坊が義経の兄頼朝の母由良御前の腹帯を祀ったのが始まりという。
 次いで義経は鞍馬山を脱して奥州平泉に逗留。頼朝の平氏追討の旗揚げを知って弁慶共々鎌倉参陣に向かう。この時通ったとされる道筋としていくつかの伝説がある。例えば大田区の三輪厳島神社(図①)にはこんな伝説がある。多摩川を渡ろうとしたとき嵐に逢い大森辺りまで流された折、陸地に社が見えたので神の加護を祈ったところ強風がおさまった。そこで神に感謝し社殿を修理し、船を泊めた所に注連竹を建てたという。また川崎市麻生区高石に二枚橋という小橋がある。(図②)義経が弁慶や伊勢三郎、駿河次郎たちを従えここを通りかかったところ、橋が粗末だったので馬も通れるように造り直した。橋は丸太を並義経1-3.jpgべた上に土盛りし、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えたので二枚橋と名付けたという。また川崎市麻生区古沢には九郎神社と称する小社がある。(図③)義経一行が古沢の部落で宿泊させてもらい、そのお礼に村民に授けた一振りの刀を祀ったのが始まりと伝える。同じく麻生区百合ヶ丘に鍋ころがしという断崖がある。(図④)弁慶が馬と共にここを越す際、馬が足を滑らせて弁慶が落馬しそうになった。その時鞍の後ろにつるしてあった鍋の紐が切れ断崖に落ち谷底に消えたという。

(つづく)

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