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批判的に読み解く歎異抄 №3 [心の小径]

1、「悪人正機」(第三条)の問題

         立川市光西寺住職  寿台順誠

(1)「悪人正機説」の提唱者(定式者)-親鸞?法然?唯円?覚如? 1
 住職からお聞きしたところでは、『欺異抄』を読まれたことがない方が多くおられるかもしれんということでしたので、今日取り上げる三条と十三条だけコピーしてお配りしておきました。「悪人正機」と呼び慣わされている条文、三条を読みます。

善人なはもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。(本願寺派『浄土真宗聖典』833-834ページ、大谷派『真宗聖典』627-628ページ)

これは『歎異抄』の中で一番有名な部分ですが、それをまず確認しました。それでこの中の重要な言葉について一つ一つ争いになっている部分に注目したいと思います。
まず「悪人正機説」は先ほど申したように「親鸞がたてた」と長らく思われてきたんですが、いや親鸞じゃなく実は法然なんじゃないのということが言われるようになりました。それを示す文章を確認しときましょう。

善人尚ほ以て往生す、況んや悪人をや、の事。口伝これあり。
私に云ふ、弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便ある善人のためにおこし給はず。極重悪人にして他の方便なき輩をあはれみてをこし給へり。しかるを菩薩賢聖もこれに付きて往生を求め、凡夫の善人もこの願に帰して往生を得。況んや罪悪の凡夫、もっともこの他力を憑むべし、といふなり。悪しく領解して邪見に住すべからず。誓えば、本は凡夫のためにして、兼ねて聖人のためと云ふが如し。よくよく心得べし、心得べし。(醍醐本『法然上人伝記』)

 この醍醐本『法然上人伝記』の言葉が注目されるようになってから、『歎異抄』三条は法然の言葉じゃないか、だから「悪人正機説」の提唱者は親鸞じゃなくて法然なんじゃないかと言われるようになりました。
 しかし、別の読み方をしますと、『欺異抄』三条に書かれている「悪人正機説」の提唱者は法然でも親鸞でもなく、『欺異抄』を書いた唯円じゃないのという見方もできます。それをちょっと三条の条文で示したいのですが、お配りした資料には同じ文章を二つの読み方で示しました。傍線は親鸞の言葉、傍点は法然の言葉、網掛けは唯円の言葉ということにしときます。それで最初の読み方は次のようなものです。

「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや。…(中略)…よって「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と、仰せ候ひき。

 この読み方ですと、親鸞の言葉は最初の書き出し「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」と、最後の「善人だにこそ往生すれ、まして要人は」の二文だけであって、あとの繋ぎの「しかるを世のひと常にいはく…」からの言葉は全部唯円の文章だと言う読み方ができます。こう読むと悪人正機説は親鸞でも法然でもなくて、唯円が提唱したのだと読めるわけです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

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