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コーセーだから №61 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  22

          (株)コーセーOB  北原 保

外売には外売で
外資対策に先見の明

ボランタリーの草分け

 日本の企業のなかで、いちばん販売・宣伝のシステム化が進んでいるのは、化粧品業界であるといっても過言ではない。
 たとえば、宣伝にしても、いまでこそスターがテレビのコマーシャルに登場するのは茶の間の日常であるが、化粧品業界ではすでに明治のころから、人気役者を使って舞台から宣伝していた。販売だって、松下電器がボランタリーチエンをしいて莫大な利潤をあげ、一躍、松下幸之助氏が〝経営の神様〟にまつりあげられたが、化粧品業界では大正のころからボランタリーチエンをとりいれていた。ただ利益が500のクリーム1個と5万円のテレビ1台ではちがうというだけのことだ。
 コーセーの小林社長は、その昔、高橋東洋堂の社員だったころ化粧品業界にボランタリーチエンとりいれた草分け、コーセー化粧品創業後もいち早くボランタリーチエンをしき、乱売のはげしい化粧品業界で安定した成長をしてきた。しかし、1956年(昭和31年)に創立した高級化粧品アルビンオンでは新しいシステムのジョイントストアシステム、即ち小売店との取り引きは現金で返品無しという新しい規定で、一般制度品システムと同じように、店頭販売が主体である。そのほかPRや外売指導を本舗がやるという販売方法をとった。なぜかといえば――
 「小売店が外売するというのはどこも考えてないこと、高級品は価格も高いし利益も多い。小売店が外売すれば利益は上がるし、メーカーにも頼らずに自分で販売を組織化することができる。こうなればいざ外国化粧品が自由化で入ってきても、市場を荒らされなくてすむと考えたからです」
 だが、アルビオンの販売組織ははじめからうまくいったわけではない。小売店は1千何百円という最高の価格と現金買い取り制におどろいて、当初の東京などあまり力を入れなかった。もっぱら関西方面で販売が伸びていた。とはいえ、アルビオンの高級化粧品の販売には、当初コーセーの社長は相当自信と熱意を持って将来を期していた。
 翌1957年(昭和32年)にアルビオンには、大学新卒者を32名も入社させ、青山のセールススクールで教育した。このセールスマンたちがいまはアルビオンの第一線の幹部に成長しているが、そのころ一軒一軒を家庭訪問して売りさばき、小売店に自信を植え付けた。
 東京ではコーセーの小売店の出資で、東西南北に四つの外売専門のアルビオン販売会社が生まれ、四国の香川県にもアルビオン販売会社ができた。こうなると黙っていられないのは他の化粧品小売店である。アルビオンはコーセーの姉妹会社だが、コーセーの社長が外売をはじめたとさわぎたてた。当時の全粧連などは「小売業者が外売先で乱売をはじめると、血で血を洗う結果となる。そんなことをコーセーの社長がするとはけしからん」と抗議文を送ってくる。ここぞとばかり業界紙は一斉に書きたてた。当時、アルビオンの社長は小林社長の旧友である櫟原文雄氏。「いや小売店の代表が揃ってアルビオンに押しかけてきて、よく私も引っ張り出されましたが、なんといっても小林社長の政治力はたいしたもの」とアルビオン創業当時を思いうかべる。
 小林社長はコーセーとアルビオンは姉妹会社ではあるが別会社という考え方、だから「コーセー化粧品は完全制度品で外売はしない」と返事をした。が、小売店は「返事に誠意がない」とつめ寄る。ついには東京のアルビオン販売会社に出資した小売店が小売商組合からつるし上げられるという事態になった。
 「諺に〝出る杭は打たれる〟というがコーセーにとってはのるかそるかの重大事件、結局、何度も話し合いを持ちました。結局、何時か年月がこれを解決してくれたけど、アルビオンの外売問題はその年の業界紙の三大ニュースのひとつになりましたよ」
 いま化粧品業界は、アメリカ最大の訪問販売化粧品「エーボン」の日本進出で、通産省、公取をあげて「エーボン、エーボン」とさわいでいるが、小林社長はすでに1956年(昭和31年)には、「外売には外売をもってする」と先見していたのだ。
                                           (日本工業新聞 昭和44年11月4日付)

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アルビンを設立したころの小林孝三郎社長(1957年)
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小林孝三郎社長はアルビンを設立した2年後には還暦を迎えた(1958年)



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