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澁澤栄一と女学館 №2 [雑木林の四季]

渋沢栄一と東京女学館その2

           エッセイスト  関 千枝子
 
 そんなわけで渋沢栄一のことも何も知らず東京女学館に転入し、小学生活を送っていたのだが、今にして思えば女学館はちょっと変わった学校であった。戦争が激しくなっても教練も武道もなかったことは前回にも書いたが、その他にも「普通」でないことがいろいろあった。
 まず、奉安殿がなかった。教育勅語とご真影が収められている奉安殿は、火事で大事なこれらの物を消失させ、責任を感じた校長が自殺する事件があり、木造の校舎の学校で、これを収めるコンクリートつくりの奉安殿が作られるようになった。十五年戦争特に日中戦争の時期になると、コンクリート校舎で焼ける心配のない学校も奉安殿を作る所が続出した。つまり、忠君愛国の学校であることを示そうとしたのだろう。しかし、女学館は最後まで奉安殿はなかった。奉安殿への最敬礼がない代わり校門の出入りの時には校舎に向かって一礼したが、それは「朝はその日の努力を期し帰途には一日の感謝を態度で表す」ということだった。
 普通の学校と一番変わっていることと言えば、「級長」というものがなかったことだろう。普通の学校は必ず級長という制度があり、一番よくでき、操行も優秀、抜群と教師に思われている生徒が任命されるのが普通だった。級長は組の頭であり、先生の助手であり、権威ある存在で、これがいない学校など想像もできなかった。だが、女学館には級長の制度がなく、あるのは「お当番」だけだった。
お当番のやることは、お昼にお茶と、暖めたお弁当(贅沢な学校女学館は、全室スチーム暖房で、朝来るとお弁当を暖房室に預けるのだった)をクラスの運ぶこと、だった。普通の学校では級長が、授業が始まる前、起立、礼と号令をかけいっせいに起立するのだが、女学館の当番はそんなことはしない。朝は皆が自然に立って、先生に「おはようございまーす」とのんびりとあいさつをする。太平洋戦争期もこれは変わらず、春風駘蕩だった。  初等科は優等生などという制度もなく、卒業式に表彰されるのは、精勤賞だけだった。小学生に優等生などの制度はいらないということで、生徒も無理な勉強をおしつけられるわけではなく点数を競い合うこともなく、ゆったりしていた。
 「行事」の少ない学校で、学芸会もなく、全学でやる大行事は運動会だけだった。初等科一クラス(四十人)中等科二クラス、高等科一クラスの小人数の学校だったので、高等科など年上の人と一緒に楽しい運動会ができた。中等科の一番上の学年が踊るカドリール、着物姿の卒業生も一緒に踊り、初等科の子どもたちは憧れの時、いつかカドリールを踊りたいと思っていた。
 修学旅行もなかった。修学旅行のない理由は、編入試験の時はっきり先生からうかがった。まだ日本が貧しかったそのころ、女の子など、旅行など論外で、結婚してしまえば、家から外に出るなど夢のまた夢だった、修学旅行はいろいろな意味で楽しい思い出になった。しかし、女学館は、裕福な家庭の子どもである。家族旅行など当たり前である。旅行は家族でするのが一番だし、学校として旅行などはしない、というもので、母などもびっくりして聞いていた。
 学科は普通の学校と変わったことはないが、「話し方」という時間があった。何かお話を一つ覚えて来て順番に話すだけだが、後年、アメリカに暮らし子どもを現地の学校にやった私は英語圏の学校でスピーチの時間が大事にされていることを知った。それは英語は書くことが難しい(スペルを覚えるのは大変)日本なら一年生でも仮名を覚えればすぐ作文が書けるが、それが難しいのでスピーチを大事にする。そんなことも外国に詳しい渋沢さんが思いつき話し方の時間など作られたのではないかと思ったりした。
 もちろんこんなことは私の想像で渋沢館長がどのくらい教育の実務に励まれたか、女学館の学校史を見ても書いてないしさっぱりわからない。
 とにかく昭和四年小学部を開校した時の館長は渋沢栄一(女学館五代目館長)、翌年副館長に西河龍治氏が就任、この方が名副館長で、細かいところまで心配りして女学館の経営、教育を成し遂げた。女学館初等科は、普通の学校のような師範での先生でなく女高師の卒業生を使い、先生は、初等科で二、三年教えた後中等科に移る。図画、音楽、体操など専門科目は専門の先生(中等科の教員)が初等科も教えるなどのシステムを考えたのもこの西河館長だったようだ。私は戦中、広島に移り「普通の」県立女学校に入ったが、地方の普通の女学校では、東京女高師出の先生が一人いれば大変な騒ぎだった。小学生に女高師卒業の先生を使うなど全くの贅沢というしかないだろう。しかし、女学館のような上級学校の受験の実務のようなこともなくのんびりした学校は、先生方にとっては恵まれた環境だったらしい。その頃女子に最高学府への細い道があって、東北帝大、文理大などが女性の入学を認めていた。女高師の卒業生の中にはこれをめざす学問好きな女性がいたが、師範系の学校の決まりとして、学費がただの代わり一年だけはどこかの学校に勤めなければならない。そこで狙われたのは女学館。小学校はクラスは四〇人でこれ以上入れることはなく、楽だし、ここで一年教えて大学をめざした。私の四年生のときの担任は東北帝大に行かれたし、五年の担任は文理大に行かれた。私は女が学問をする、最高学府に行くということに何の疑念も持たなかった。これは女学館の「余得」かもしれない。
 渋沢さんは年取ってからの名誉職で館長に就任されたわけではないようだ。関東大震災で女学館は虎ノ門の校舎が焼け現在の地・渋谷羽沢御用地に移るのだが、この工事の費用も大変でようやく戦前の本館、北館が落成するのが渋沢館長時代、これだけでも大変な事だったろうが、昭和四年小学部(初等科)誕生のころの館長も渋沢さんだ。
渋沢栄一という方は、もともと女子教育に大変熱心な方で、NHKの朝のテレビ小説「朝」にも日本女子大の設立に理解を示し援助する渋沢さんが出てくるが、それ以前から女子教育に熱心だった。明治政府は一八八六年(明治一九年)女子教育奨励会を設立するが、創立委員は二十二人、そのトップに名を出すのが伊藤博文(当時総理)、次が渋沢栄一。この会が東京女学館と呼ぶ女学校を作ることになり、はじめ麹町永田町の雲州屋敷で開校するが、間もなく虎ノ門に移る。ここに関東大震災まで十数年学校があったが、女学館の生徒はあでやかな姿で「虎ノ門」と呼ばれる。有名女学校の随一だった。虎ノ門の校舎は元工部大学校の寄宿舎で女子の学校の教室としては不適当というので渋谷羽沢の宮内省御料地のうち二千七百坪の貸与を願い出るのだが、このことに力を発揮したのが、当時女学館評議員の渋沢栄一、この歴史を見ても、渋沢と女学館の縁、並ではないことが判る、
渋沢館長の死後の六代目館長は桜井錠二氏(この人も創立委員の一人なので相当の有名人らしい)この方が八年勤め、次が松浦鎮次郎氏。松浦氏は九州帝大総長、枢密顧問官も務めた大変立派な方だったようだが、昭和十五年米内内閣ができると文部大臣になり、一国の教育行政を握るものが特定校の校長は望ましくないと館長の地位をおり、西河副館長が副館長のまま実務を続けた。館長空席のままで、これが戦争終了後まで続く。松浦文部大臣は自由主義傾向を持っていたと言われ、女学館も風当たりが強く、西河副館長はそのあたりのことを察したのかついに館長にならず、副館長のままだった。しかし西河副館長は、立派な方で、軍事教育一辺倒の教育から女学館の戦中教育をも守り抜いただろうと思うのだが、そのあたりのことは、女学館史にも初等科五十年史にも詳しいことは書いてないので想像するしかない。しかし、この西河副館長が渋沢さんの任命であったことは、多分渋沢=西河ラインのような理想の教育理念があったのではないかと思うのだが。


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