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批判的に読み解く歎異抄 №1 [心の小径]

批判的に読み解く『歎異抄』
 ー悪人正機説と本願ぼこり(造悪無碍)

          立川市光西寺住職  寿台順誠

(はじめに) 『欺異抄』と親鸞の異同 (何がどう異なるのか) 1
『欺異抄』の「悪人正機」を親鸞思想の中心思想として肯定する立場(同)と、そうでない立場(異)

 こんにちは、お久しぶりです。と申し上げてもほとんどの方は私をご存知ないだろうと思いますが、実は私はここで生まれ育った者です。三十二年半前にこのお寺を色々な経緯があって出ることになりました。今は東京の立川で浄土真宗本願寺派のお寺の住職をやっております。私の生まれたお寺でこうやってまたお話する機会があるとは思ってもみませんでしたので、今日は言葉にしがたい感慨があります。
 三年ほど前ですか、皆さん御覧になったかどうか分かりませんが、新海誠監督の『君の名は。』というアニメ映画が流行りましたね。その主題歌に「前前前世」という言葉が出てきました。「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ」という歌詞です。これは今の私の心境なんですね。
 正雲寺を出て以来、大体十年毎に自分のやっていることとか研究しているテーマとかが変わったりしたものだから、十年ひと昔と考えると「前前前世」位の時に私はここで生きていたことになります。それで何か深いご縁のようなものを感じていることを最初に述べさせていただきたいんです。でも今日は『欺異抄』の話をしなきゃいかんのに、私の「前前前世」にさかのぼってやってきたことを今話し始めると多分一時間半喋っちやいますから、それはまた機会があれば申し上げたいと思います。
 それでは早速中身に入ることに致します。まず『欺異抄』といえば親鸞、親鸞といえば『欺異抄』と、まあそう思っている人は今でも多いでしょう。いずれにしましてもかなり長い間、親鸞の考えと『欺異抄』に書いてあることはほぼ同じ、必然的にイコールとして考えられてきたんだろうと思いますね。しかしここへきてその辺の考えが変わってきた、そういうことを少し今日はお話したいと思います。
 どうやって変わってきたか、どの程度変わってきたかってことについて、お配りした資料の5ページを開いて下さい。『欺異抄』に関して載っていますが、これは山川出版の日本史の教科書をさらに詳しく解説した参考書です。その1998年版と2008年版を、両者の文章はほとんど一緒ですけど、傍線のとこだけ見ますと1998年版にはこう書かれていました。

 罪深い悪人こそが、阿弥陀仏が救済しようとする対象であるとの悪人正機の説をたてた。

 親鸞が悪人正機説を「たてた」というのは、「提唱した」ってことですよね。そういうふうに書いてあったし、長らくそう思われてきました。ところが十年経った2008年版を見て下さい。2008年版の解説によりますとこう変わっています。ほんのちょっとした変化ですけどね。

 罪深い悪人こそが、阿弥陀仏が救済しょうとする対象であるという悪人正機の説を強調した。

 「たてた」とは、もう書かなくなったんですよ。「悪人正機」、悪人こそ救われるという教えは親鸞の教えだとずっと考えられてきた。その説は親鸞が初めて言ったことだ、提唱したことだ、とされてきたけれども、十年たったら「たてた」じゃなくて「強調した」に変わっている。「強調した」ということは、「たてた」人は別にいたということです。昔から言われてはおったことですけど、おそらく「たてた」のは法然上人だとなって親鸞が「たてた」とは言えなくなったから、親鸞が「強調した」ってことになった。推測ですが、もう少し経ったら「親鸞が悪人正機を強調した」とも書かなくなるんじゃないかと私は思っています。(つづく)


名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

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