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論語 №94 [心の小径]

二九六 季康子、盗(とう)を患(うれ)いて孔子に問う。孔子対(こた)えていわく、いやしくも子の不欲ならばこれを賞すと雖も窃(ぬす)まじ。

              法学者  穂積重遠

 季康子が人民に盗み心の多いことを心配して、孔子様にどうしたらよいかと相談した。孔子様が答えられるよう、「もしあなたさえ無欲ならば、懸賞つきでも盗みをする者はありますまい。」

 孔子様としてはかなり大げさな当てつけがましいことを言われたものだが、古証(こちゅう)に「李氏は柄(国政)を窃み、康子は嫡(ちゃく)を奪う。民の盗を為す、もとよりその所なり。なんぞ亦その本に反(かえ)らざるや。孔子不欲を以てこれを啓(ひら)く、その旨探し。」とあり、また太宰春台は、「公室を四分して季氏その二を取る。李氏の盗を為すこと大なり。民の盗を為すはもとよりその所なり。」と言った。しかし孔子様のせっかくのこの苦言も、季康子の胸にピンとこなかったらしいことは、次章でも推測される。東洋の君子国日本が「盗を患いて孔子に間」わなければならぬようになってきたことは、残念千万だ。

二九七 季康子、政(まつりごと)を孔子に聞いていわく、もし無道を殺して以て有道に就(つ)かば如何。孔子対えていわく、子、政を為すになんぞ殺を用いん。子、善を欲すれば民善なり。君子の徳は風、小人の徳は草。草れに風を上(くわ)うれば必ず偃(ふ)す。

 李康子が政治について孔子に、「国が治まらないのは人民に無道の者がある故だから、
無数の者を殺して人民を道有る方へ赴かせるようにしたら如何なものか」とたずねた。孔子が答えて言わるるよう、「政治をするのに何で『殺す』必蠍がありましょうや。あなたがまず善を欲するならば、民はおのずから善になります。上に立つ者の持前は風のごとく、下に在る者の持前は草のごとくでありまして、草は風があたればその方向にねるものであります。」

 以上三章、李康子に向かって真っ正面から、「子正しさを以てすれば」「子の不欲ならば」「子善を欲すれば」と、いちいちに「子」と言っておられるところをみると、孔子様はかなり痛烈に季康子の不正・多欲・不善を責められたのだが、それに対して腹も立てず、さりとて反省もしなかったのであるならば、李康子なる者相当にカンがわるい。

二九八 子張問う。士いかなるをここにこれを達と謂うべきか。子のたまわく、何ぞやなんじがいわゆる達とは。子張対えていわく、邦(くに)に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子のたまわく、これ聞(ぶん)なり、達にあらざるなり。それ連なるものは、質直にして義を好み、言を察して色を観(み)、慮(おもんばかり)て以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。それ聞なるものは、色、仁を取りて行い違(たが)う。これに居りて疑わず。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。

 「在邦(ざいほう)とは諸侯に仕うるを謂い、在家とは卿大夫(けいたいふ)に仕うるを謂う。」とする説があるが、家はやはり家庭とみて、公生活、私生活といいたい。

 子張が、「士たる者は達でなくてはならぬと思いますが、達とはどういうことを申すのでござりますか。」とおたずねしたところ、孔子様が゜「何かね、お前が達というのは。」と問い返された。子張が、「公生活でも評判がよく、私生活でも評判がよい、ということであります。」と答えたので、孔子様がおっしゃるよう、「それは閏であって達ではない。質朴正直で正しきを好み、人の言葉をよくかみわけ、人の顔色をよく見ぬき、十分に考えて行動し、おのれを空しくして人にへりくだる、そうすれば公生活でも通りがよく、私生活でも通りがよい。それが達というものじゃ。外見はいかにも仁らしく見えて行いは仁に違っているのだが、自分でもそれがよいと信じて疑わずにやっていると、世間はそれにくらまされて、公方面でも評判がよく、私方面でも評判がよかろうが、それは閲であって達ではない。お前も外面だけの閲に安んじてはいけない。内容充実しておのずから達するということにならねばならぬぞよ。」

 伊藤仁斎は次のとおり解説している。「聞とは、中(うち)に虚(きょ)にして外に声(ほまれ)あり、実を務めずして名を務む、達とは、ここに足りてかれに通ず、自ら中に修めて人の知らんことを求めず、すなわち誠偽(せいぎ)の在る所にして、君子、小人の分るる所以なり。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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