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多摩のむかし道と伝説の旅 №37 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

野火止用水水辺の道 4

                  原田環爾

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 水車を後にすると中ノ橋がある。明治22年築という赤煉瓦と石積みのアーチ橋で、レトロな風情が野火止用水の景観とよく融け合っている。「大岱のヤマニ水車」と呼ばれた當麻商店はこの脇にあったという。中ノ橋からは左岸をとるといい。樹木に覆われた気持ちのいい水辺の道になっている。程なく運動公園通りの万年橋に出る。そこに「万年橋のケヤキ」と呼ばれる大欅が立っている。高さ30m、幹周り7mもあり用水をまたぐ様に36-3.jpg根をはっている。東村山市の天然記念物に指定されている。大欅の根元に小さな堂宇があり、中には2基の馬頭観音が祀られている。1基は寛政6年(1794)の刻像塔、他の1基は明治6年の文字塔だ。大欅の北側根元には傾いた古びた石の道標が立っている。表面には『右 小平村 東村山停車場、? 小平村 久留米村』等と刻まれている。万年橋が昔から旅人の目印であったことを伺わせる。なお「万年橋のケヤキ」は両岸にしっかり根っこが張っているため、古くから天然の橋として使われてきた。傍らに木橋ができたのは昭和10年、その後昭和47年にコンクリート橋が出来たという。この欅は、野火止用水を開削する前からあったという説と、開削後に植えられたという説があり、どちらが真実か定かでない。いずれにせよ大変な樹齢であることは間違いない。
36-4.jpg 万年橋からは用水右岸を道なりに進む。菊水橋辺りに来ると左岸は深い雑木林が続く。更に右岸を進めば、次の橋の袂から駐車場の横を南へ伸びる道がある。その道を50mばかり入ると東村山市運動公園の北口入口となる。公園は広大でテニスコート、陸上競技場、プールなどがあるが、面白いのは園内の一角にD51の機関車が青天井で展示されていることだ。
 もとの橋の袂に戻り、更に水辺を進むと無名の石橋の架かる交差点に来る。左岸には立正佼成会、右岸には大きな倉庫会社が並ぶ。程無く新所沢街道にぶつかると右岸は通行不能となる。そこで左岸の野火止通りを行くことにする。まもなく野火止用水の右岸は東久留米市の市域となり深い雑木林が続くようになる。下里の雑木林だ。ここは東久留米市の『野火止歴史環境保全地域』に指定されている。野火止通りの歩道を進むのもいいが、雑木林の小径を取るのは更によい。とりわけ日差しの強い夏場は涼しくて快適な道となる。雑木林と言えば通常コナラが多いが、ここはクヌギが多く、クヌギ36-5.jpg林と呼ぶのがふさわしい。やがて所沢街道と交差する界橋に出る。再び左岸の野火止通りを進む。通りは清瀬市に入る。バス停「三角山」Xの左手の小山の上には浅間神社の小祠がある。程なく南側から伸びてきた新小金井街道(都道15号)と合流して広い車道に変貌する。36-6.jpg合流点は特に橋があるわけではないが押出し橋という。用水はここでクランク状に屈折した後、車道の下をくぐり、筋向いの右側歩道端に幅1m程の用水として姿を現す。ところで合流する新小金井街道は沿道約1kmにわたって珍しい花梨並木となっている。その花梨並木を100mも南へ辿れば、そこに下里本邑遺跡公園がある。
37-1.jpg 下里本邑遺跡公園の辺りは、黒目川のほとりに位置して、水が豊かで生活環境に優れていたため、古代人の生活の舞台となった所だ。約2万5千年前の先土器時代から縄文時代、弥生時代、更には奈良・平安時代へと連続して住居跡が発掘されている。その主要部分8,000㎡が遺跡公園として整備された。園内の片隅には遺跡館もある。


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