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論語 №91 [心の小径]

二八五 子貢政(まつりごと)を問う。子のたまわく、食を足らし、兵を足らし、民これを信にす。子貢いわく、必ずやむことを得ずして去らば、この三者において何をか先にせん。のたまわく、兵を去らん。子貢いわく、必ずやむことを得ずして去らば、この二者において何をか先にせん。のたまわく、食を去らん。古より皆死あり。民、信なくんば立たず。

                法学者  穂積重遠

 子頁が政治の要領をおたずねしたら、孔子様が、「食をゆたかにし、兵を強くし、民を信ならしめることじゃ。すなわち政治の要領は食糧問題と国防閻魔と道義問題である。」と言われた。すると子貢が、「なるほど食と兵と信と、この三拍子そろえば申し分ありますまいが、国家の現状どうしてもやむを得ずしてこの三者中の一つをやめにせねばならぬということになりましたら、何から先にやめにすべきでござりましょうか。」とおたずねした。すると孔子様は、「兵を去らん」(軍備はおやめだ)と答えられた。そこで子貢が重ねて、「さらにまたどうしてもやむを得ずして残りの二つ、すなわち食と信とどちらかを断念せねばならぬことになりましたら、どちらをやめにすべきでありましょうか。」と質問すると、孔子様がおっしゃるよう、「もちろん食をやめにする。食がなければ人は死ぬが、昔から今まで、おそかれはやかれ人は皆死ぬのじゃ。人に信がなくなったら、国家人生の根本が立たぬぞよ。」

 これは今日のわが図に恐ろしいほど適切だ。「兵を去らん」は、新憲法にいわゆる「戦争の放棄」で、これは「やむことを得ずして」であったかも知れぬが、結局は「人類普遍の原理」として列強がわれにならわんことを切望し期待する次第である。ところで食と信との二つにつき「何をか先にせん」ともし子貢がたずねたならば、われわれは異口同音に、「信を去らん。古より皆信なし。民食なくんば立たず。」と答えはしないだろうか。残念だ。恥かしいことだ。

二八六 棘子成(きょくしせい)いわく、君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢いわく、惜しいかな夫子(ふうし)の君子を説くや。駟(し)も舌に及ばず。文は猶(なお)質の如く、質は猶文の如し。虎豹(こひょう)の革(かく)は猶犬羊の革の如し。

 衛(えい)大夫の棘子成が、「君子たる者は実質が大事じゃ、形式などはどうでも宜しい。」と言った。子貢が申すよう、「大夫殿の君子論は甚だ遺憾に存じます。『駟も舌に及ばず』と申しまして、大夫殿のような方がいったん口から出されると、四頭立てで追っ
かけても取りもどしができません。文と質とは別物ではなく、文が質であり、質が文で
あります。大夫殿は質だけで文はなくとも君子小人の見分けはつくように言われましたが、虎や豹の皮でも毛を抜いてしまったなめし草では、犬や羊の皮と見分けがつかぬではござりませんか。」(参照-二二五)

二八七 哀公(あいこう)、有志に問いていわく、年饑(う)えて用足らず、これをいかんせん。有若(ゆうじゃく)対(こた)えていわく、なんぞ徹(てつ)せざる。いわく、二もわれ猶足らず、これをいかんぞそれ徹せんや。対えていわく、百姓足らば、君たれとともにか足らざらん。百姓足らずんば、君たれとともにか足らん。

 魯の哀公が有若に、「飢饉で国の財用が不足だが、どうしたらよかろうか。」とたずね。すると有れが.「なぜ十分一税になさらんおですか。と言ったので、哀公が驚いて、「既に十分一税を取ってそれでも止りないで困っている始末なのに、どうして十分一税にできようか。」と言った。そこで有若が答えて申すよう、「君民は一休でありまして、民が富めば君も富み、民が貧しければ君も貧しいのであります。もし人民が『足りた』ということになったら、殿様は誰と共に『足らぬ』とおっしゃれるのですか。もし人民が『足らぬ』ということになったら、殿様は誰と共に『足りた』とおっしゃれるのですか。そもそも凶作と財政不足の根本対策は、減税によって民力を休養させることに外ならぬと存じます。」

 有若は風采が孔子様そっくりだったといわれるのだが、この議論もまた孔子様そっくりの金言であって、今日では実際上なかなかこうはゆかぬけれども、政治の根本原理は結局そこになくてはならぬと思う。哀公がこの献策(けんさく)をいれたかどうかは記録されていないが、もしそこで減税でもしていたら、それこそ「仁徳」とでもたたえらるべきはずで、「哀公」などという情けない「おくり名」はもらわなかったろうと思う。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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