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多摩のむかし道と伝説の旅 №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

野火止用水水辺の道 2

                  原田環爾

35-2.jpg 35-2-2.jpg野火止一帯は水事情が大変悪く作物は育たず、冬は砂ぼこりが空に舞い上がるという土地柄だった。そのため川越藩主松平伊豆守信綱は新田開発を志すも大変困難なものだった。そこで信綱は用水を作ることを企て、幕府から玉川上水からの分水許可を得て、土木技師安松金右衛門に開削工事にとりかからせた。金右衛門は農民を中心とする工夫の先頭に立ち、小川村の分水点から新河岸川までの6里(約24km)を40日間で掘り通した。伝説によれば開削は完成したものの、水は大地に吸い込まれてなかなか流れて来なかった。そのため上役等周囲から疑念の目で見られ、悪口雑言を浴びせられた。しかし信綱は「必ず流れてくる」という金右衛門の言葉を信頼し、ひたすら時が来るのを待った。やがて1年たち、2年たち、ついに3年目の秋、台風が吹き荒れたある日、堀にどっと水が流れ込んできた。これにより用水周辺の田畑はうるおい、米の収穫高は10倍にもなったと伝えられる。
35-3.jpg けやき通りを渡り再び野火止緑地の深い雑木林に入る。水辺を道なりに進んで雑木林を抜けると東野火止橋の車道と交差する。車道を渡ると右に用水、左に民家が並ぶ落ち着いた住宅街になる。100mも進めば民家の庭先から再び深い雑木林に入る。すぐ「こなら橋」という木製の小橋があるので橋を渡って右岸に回る。やがて雑木林は終わり、南側から伸びてきた車道の歩道に合流する。古びた土橋の袂を左にやり、左右に都営住宅を見ながら用水右岸に沿ってそのまま東へ向かう。用水には鯉が放流されていて目を楽しませてくれる。程無く左は明治学院の敷地となる。中学校と高校からなる。沿道の桜並木を抜けると明治学院の敷地内に木製の白壁に赤い屋根のレトロな建屋が目に入る。何ともシックで素敵な建物だ。以前からここを通る度に、由緒のある建物なのであろうと思っていたが、後にこれがかつての駐日大使ライシャワー氏を記念したライシャワー館であることを35-4.jpg知って感動したことを思い出す。ライシャワー館は元は港区白金台の明治学院構内にあった宣教師館で、1910年ライシャワー博士はそこで宣教師の父の次男として生れた。16歳の時帰国し、オハイオ州オバーリン大学を卒業後、ハーバード大の教授となり、極東アジア問題の世界的権威となった。1961年、駐日大使に任ぜられて来日、5年間日米の橋渡し役を担った。1964年白金台に高等学校の新校舎が建設されることに伴い、ライシャワー館は一旦取り壊され、翌1965年、東村山のこの地に復元された。
 明治学院の校舎を後にして用水沿いの細い小道を進むと、右手に小さな中宿公園が現れ、富士見通りの中宿橋袂に出る。通りの筋向い角地には『家庭料理 ふらり』と称する一見普通の家の様なレストランがある。通りを横切り、『ふらり』を右にやり過ごし、そのまま右岸の道をまっすぐ進む。程無く用水左岸に古風で重厚な門構えが現れる。『草門去来荘』という名の和風レストランで、武蔵野の面影を残す600坪の敷地内の座敷で囲炉裏を囲む懐石料理が味わえる。筆者も2度ばかり利用したことがある。西武国分寺線を越えて都営団地を右に見ながら用水沿いの道を進むと、やがて府中街道と交差する八坂の交差点に至る。ここは旧鎌倉街道をはじめ沢山の道路が複雑に交叉する所で古くは「九道の辻」と呼ばれた。
35-5.jpg 「九道の辻」の名は鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差していたことに由来する。旧鎌倉街道のほぼ中間地点で鎌倉へ18里(72km)、前橋へ18里(72km)の地点である。この辻の付近は、野火止用水が開削されるまで、広漠たる武蔵野の原野の中にあったと言われる。(つづく)


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