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雑記帳2020-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-2-1
◆青梅は織物で栄えた町です。

大正から昭和にかけて、青梅は「織物の町」として全国に知られました。
桑都と呼ばれた八王子のような絹とちがって、こちらは、木綿です、
青梅縞、青梅麺と呼ばれ、私も青梅縞のポーチを一つ持っています。
昭和20年から30年代には布団を包む木綿の夜具「青梅夜具地」の生産が全盛期を迎え、町中に織機の音がひびいていたといいます。
毎年2月に催されていた青梅マラソンは市民が参加するマラソンとして人気がありましたが、同じ日に東京マラソンが開催されることになって、日程変更をよぎなくされた苦い記憶があります。東京とはけんかになりませんからね。
いまは利用されなくなった当時の工場や蔵を町おこしに役立てていると聞いて、青梅市街を歩いてみました。

JR東青梅駅から歩き始めてほどなく、ガイドさんが足を止めたのは都立青梅総合高高校でした。平成6年に都立農林高校と都立青梅高校が合併して生まれた、都内で最初の総合高校です。
その名の示す通り、文科・理科の普通科目に加え、生命・自然、食品や環境、福祉まで幅広い科目をそろえています。母体が農林高校だけあって、敷地面積は100ha.。ディズニーランドの2倍の広さは都立高校一です。地元の人には自慢の高校のようでした。
もう一つの自慢は築70年の講堂です。体育館が普通の現在、昔懐かしい講堂は今も入学式や卒業式に現役でつかわれているそうです。

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都立青梅綜合高校
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木の後ろに見える建物が講堂

かっての倉庫が、「繭蔵」という名の、おしゃれなレストランにうまれかわっています。建物は大正時代のものです。早めのお昼を繭蔵でいただきました。ふだんのごちそうがテーマのランチはその名も「繭膳」。
繭蔵がおしゃれな若者向きの空間になっているとおり、私たちと入れ替わるように、テキスタイルを学ぶ専門学校生の集団がおとずれていました。

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繭蔵
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繭善

道路を挟んでむかいにはかって織物加工工場がありました。女子更衣室や都立繊維試験場の建物はそのままのこっています。
昭和7年に創設された青梅織物工業組合は、戦後、すでに斜陽だった織物工業を、夜具の生産に変換して息を吹き返しました。「掻巻」と呼ばれる夜具は日本中で愛用されました。
のこぎり屋根や、北向きのつくりは当時の工場の典型的なデザインです。北向きなのは直射日光をさけるためでした。国指定の有形文化財になっています。どこかから移された織姫神社が敷地の片隅にのこっていました。
工場はいま、画家や工芸作家たちの工房やアトリエに利用されています。一角は福祉作業所になっていました。

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ノコギリ屋根の工場は今はアーテイストたちの工房や作業所になっている

繭蔵を出て、青梅街道を渡り、多摩川に向かって歩きます。
青梅街道はかっては成木往還と呼ばれ、江戸時代、青梅の成木で生産された石灰を江戸城まで運ぶためにできた産業道路でした。新宿を起点に青梅を経て、山梨県甲府まで続く道です。
目指すは多摩川にかかる「調布橋」。ここに、ラフカデイオ・ハーンの「雪女縁(ゆかり)の地」の碑があるのです。

調布といえば、現在の東京都調布市を思い浮かべますが、青梅のこの辺りは昔、西多摩郡調布村とよばれていました。地元の製品を五日市方面に運ぶには、この調布橋は大切な橋でした。それまでは「千ヶ瀬の渡し」しかありませんでしたので、橋の建設は地元の悲願でした。最初の調布橋は大正11年に「吊り橋」として架けられ、その後昭和10年には、鉄骨のアーチ橋に、さらに約60年後に老朽化の為に現在の橋(「これがなかなか美しい)に架け替えられました。 よほど思い入れがあるのか、この経緯は、橋の左岸下の公園に立つ、調布橋の碑に詳しく書かれています。
碑に向かい合うように、雪女の石碑がたっています。碑には、ラフカデイオ・ハーンの「雪女」の前文に、ハーンがここ調布の農民から雪女の話を聞いたとある、と記されていました。

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ラフカディオハーン「雪女」の碑

調布橋を渡ってさらに吉野街道をよこぎると、青梅の織物の歴史が現代に伝わる工房が目にはいります。「ホットマン」と「壺草庵」です。
壺草庵は藍染工房。かつて 海の向こうの人々に「ジャパンブルー」と言わしめ、 驚きと感動をもたらした藍の色をもう一度ひろめたいと、江戸時代から続く「灰汁醗酵建て」による藍染を貫く工房です。

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壺草庵
ドアを開けて店にはいると、壁に万葉仮名の額がかかっているのを見つけました。
「多摩川にさらすてづくりさらさらになんぞこの児のここだ愛(かな)しき」
万葉集にある歌です。同じ歌が現在の調布市にある布多神社にのこっています。

ホットマンは吸水性が高いと話題になった、東京生まれのタオルを作っています。
一秒タオルは試験片を水に浮かべたとき、1秒以内に沈みはじめるという、吸水性抜群のタオル。押し当てるだけで瞬時に水分を吸収してくれます。美容院などで採用しているところも多く、赤ちゃんにも優しいと評判のタオルです。

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ホットマンの工房

吉野街道を西へすすんで、多摩川が大きく蛇行する川べりに建つ青梅郷土博物館に立ち寄りました。川の流れが岸壁にぶつかって蛇行を余儀なくされたこの地点はかって「釜ケ淵」と呼ばれ、今は遊歩道も整備されて市立の「釜の淵公園」になっています。春は桜、夏はカヌーやバーベキューと、川遊びをする市民でにぎわうところです。博物館では、青梅の織物の歴史を詳しく学ぶことができます。

博物館のすぐ隣に国指定の重要文化財、旧宮崎家住宅が移築されています。
青梅市街の北方の山間にあったという、19世紀初頭の建物です。1977年(昭和52年)に持ち主だった宮崎氏から青梅市に寄贈され、1979年(昭和54年)に現在地に移築復元されました。建物は当時の一般的な農家の造りで、囲炉裏と広間が一体化した“広間型”と呼ばれる構造になっています。

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古民家「宮崎家住宅」

釜の淵公園から鮎見橋(この名前も美しいですね)を渡って街道へもどり、路線バスに乗りました。吉野梅郷をすぎて柚木町にあるパン屋さん、 Bakery Cafe「nocco」へ。このパン屋さんが昔の織物工場を再利用しているのです。特徴ののこぎり屋根ものこっています。

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ノコギリ屋根がそのまま残るパン屋さんnocco

Bakery Cafeの近くには吉川英治記念館がありました。戦時中青梅に疎開して、昭和53年までこの地で執筆活動を続け、国民的作家と呼ばれた吉川英治の記念館は2019年に閉館になりました。(その後、青梅市が買い取って2020年9月7日の英治の命日に再び開館することがきまったそうです。)
記念館の近くに建つ即清寺は1,000年の歴史をもっています。多摩八十八か所霊場の50番目の札所ですが、裏山をめぐると、一度に八十八か所を巡ったことになるということから、信者を集めているそうです。

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即清寺本堂

バスで青梅駅までもどると、青梅街道沿いの商店街には、大正・昭和の歴史のある建物がならんでいます。一時期、昔の手描きの映画館のポスターがメディアもとりあげ、話題になりました。今も街の随所にレトロなポスターがかかっています。 駅の地下通路では、壁に描かれた懐かしい昭和のスターたちにあうことができました。

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商店街亜レトロな看板がいっぱい
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赤塚不二夫会館
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青梅駅地下道

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