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バルタンの呟き №66 [雑木林の四季]

「世界で一番平和な国ニッポン!」

               映画監督  飯島敏宏

習慣といっても、ここ数年のことですが、新年には、僕はママ(恥かしながら妻のことです。子供たちが小さい頃そう呼んでいたのが、そのまま、金婚もとうに過ぎ、偕老同穴の老夫婦、いえ、老夫とその夫人になったのです)と連れ立って、暮れのうちに前売り券を手に入れておいた、なにがしかの「ニューイヤー・コンサート」に出かけて、お正月気分に浸っています。男42歳の本厄除けでお参りして以来、習慣的に毎年初詣をかねて、家内安全厄除け祈願に川崎大師に行っていたのですが、何年か前に、境内に掲示されていた厄の干支表に載る歳を越えてしまったことに気が付いたのをきっかけに、初詣は、我が家から徒歩で行ける、祭祀や縁日の際だけ神主や巫女さんがいる地元の小さな神社で済ませるようになってしまったので、せめて新年気分を味わいたくて、そんな習慣になったのです。
今年は、ママが昨秋に切符を手配していたウクライナ国立バレエ・キエフバレエ団新春日本公演「白鳥の湖」ということで、横浜の神奈川県民ホールに出かけました。

西暦2020年、世界各国は非常に不安定な情勢で、継続する北朝鮮問題に加えて、アメリカ対イランの緊張があわや戦争へ、という騒然たる幕開けでしたが、令和日本初めてのお正月は、平成天皇皇后が異例の生前退位、新天皇が即位した日本令和時代が本格的に始動、と、政府、マスコミが意気込んで迎えた正月でした。天候のほうも、関東地方では、元旦こそは分厚い層雲が地平に横たわっていて、扇状に広がる台地の峠にあるわが街のご来光スポットで初日の出を拝むことは出来ませんでしたが、令和日本初めてのお正月は、その後三が日から七草まで、松の内は押しなべて好天の続いた平穏なお正月でした。皇居では、恒例に倣って、広場を望むお立ち台に、新天皇皇后を中心に、上皇、皇太后以下天皇家ご一同が立ち並んで、にこやかに手を振られる姿があり、前後二回の奉祝行事に、併せて五万人に上ったという大群衆が、日の丸の旗を打ち振って万歳をとなえる風景がテレビ中継され、新天皇の新年ご挨拶では、「日本国憲法に則った日本国の象徴としてのあり方」について深く配慮したお言葉が述べられるという平穏な出だしでした。

さて、入場時間きっかりに会場についてみると、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団の指揮者が突然の事情で変更という掲示が目につきました。変更の理由は、事情によりというだけで、具体的には書かれていません。
「まさか、イランが誤って撃墜したウクライナ発の旅客機に乗っていたんじゃないだろうね・・・」
もちろん、冗談交じりの言葉です。
「そんなことはないでしょう。行き先が違うでしょう」
「あ、そうだったね、カナダにむかうボーイング機だ」
「大丈夫?お神酒が残ってるんじゃないの?それより、携帯の電源、切ったの?」
などと、まるで噛み合わない痴話を交わしたりするうちに、オーケストラボックスに、立派な体格の代理指揮者が登場、期待に湧き上がる拍手に一礼、国立歌劇場管弦楽団の見事な生演奏で幕があがります。
世界的な人気バレリーナ最後の白鳥、とプログラムに紹介されているエレーナ・フィリピエナ以下、湖を見下ろす煌びやかな宮殿に、次々に登場する鍛え抜かれたバレエの踊り手たちの見事な演舞に、バレエファンでもない僕も、たちまち惹き込まれて、リラックスした気分で椅子に沈み込みます。
「見てごらんなさい、すごく奇麗な人ばかりだから。宝塚なんてもんじゃないわよ」
「タカラヅカ?」
乗り出すように絢爛たる舞台を見入っていたママから、いきなりの宝塚との比較で手渡されたオペラグラスを受け取り、
「素敵でしょう!」
アップで見るダンサーたちの表情豊かな美貌と、均整の取れた肉体美と、加えて、久しぶりに生で聞くオーケストラの名曲に陶然と酔いしれて、オペラグラスをあちこち巡らすうちに、
(人間って、なんと美しく、高邁な文化を創る生物なのだろう)
とさえ、感じたものです。
「ね?日本人じゃ、いくら踊りは上手でも、ルックスが、ああはいかないのよね、みんなすっごい素敵な人ばかり。ね、美人さんばっかりでしょう・・・」
「うむ、まあ・・・北欧系だからなあ」
(美人ってこととちょっと違うんだけどね)
僕の脳裏にはイングリット・バーグマンの顔が、浮かんでいました。
「歌舞伎は、高すぎるわ、最近、名前ばっかり立派になって・・・」
「歌舞伎?」
いきなりの歌舞伎でしかも入場料の比較に、戸惑う僕でしたが、ママは、デパートとスーパーマーケットとの衣料や食品価格を比較するように冷静です。
フィナーレが終わるや、たちまちのカーテンコールで、中年や老人たちは手拍子ですが、
ついには若い観客たちが、スタンディングオベイション・・・前が見えなくなって、あっちこっちと体を傾けながら、老人たちは、かしこまって座っての拍手です。
「みんな、なんで立たないんだろ」
若い女の子の声が聞こえました。

さて、場外に出た脚は、迷うことなく、お決まり通り中華街へと僕たちを連れて行きます。2020東京オリンピック・パラリンピックを迎えるに当たって、大改修を終えて一段と華やかな街に変貌した中華街を歩いてのママの感想です。
「なんだか、最近は、食べ放題の店とか、屋台ふうで、通りで立ち食いするところが、やたらにふえたようね」
たしかに、若い家族連れやカップル、若い男性のグループ、女高生らしきお嬢さんたちも、最近は路上での立ち食い、立ち飲みが増えて来ました。
「中国や韓国なら、あたりまえみたいだけど、日本だと、ちょっとね」
「まあたしかに、お行儀の問題もあるけど・・・」
(ここにも格差社会、中流階級の減少があるんじゃないかな)
そう付け足そうと思った僕でしたが、飲みこみました。
「昔、あたしが中国へ行った時には、ああだったわ。でも、あの時、千円、千円と言って子供たちが、観光バスに乗り込んで来るのを外へ押しやりながら、ガイドの青年が、10年先にきてください、って言ったけど、まるで変ったという今の中国でも、どうなんだろう、ああなのかな」
華正樓、萬珍楼、聘珍楼・・・慣れ親しんだ老舗の看板の他に、更地にして建て直したり、前面を煌びやかに改装した建物、けばけばしく派手で大きなネオン看板が一段と増えたメイン通りには、南京街とか支那料理などはの言葉はもちろん、「汚い店ほど、美味いんだ」と僕たち世代までが持っていた中華街の面影は、かなり希薄になっていました。
老舗や高級料理店の立ち並ぶ、メインストリートに出ると、ちょっと印象が変わって、成人式帰りと思われる、アメリカンカジュアルでない服装のグループや、英国調といったクラシック調デザインの服に身を包んだ若い男たちが多く目につき、連れ合う女の子の着物姿も、ひと頃やたらに流行ったけばけばしい厚化粧と髪飾り、羽飾りのような襟巻一辺倒ではなく、柄こそ適当にモダンなものに変わりながら、充分に和の雰囲気を映すお嬢さんたちが、中華街の新しいイメージづくりにマッチしているように感じたのは、時代の変遷でしょうか・・・
「ひょっとすると、いま、世界で一番平和なのは、日本なんじゃないかなあ」
「大丈夫?」
と、心配されながら、久しぶりに杯を重ねた紹興花彫酒の加減だったのでしょうか、ふと、そんな言葉を漏らしていました。
(いや、二極分化が進んでいるということか・・・)
二人が飲めるように、行き帰りは車ではなく、電車でした。
成人式以外の新年イベント帰りや、連休終わりで帰郷してきた家族連れの乗客で混みあった電車内でも、周囲の乗客の中で、時局を論じ合う人はもちろん、声高に話をする人もいません。乗客の殆どがうつむいて、沈黙のままスマホを覗いています。
(大阪でもこうなのかなあ・・・)
そう思っていると、
「どうぞ」
互いに顔を寄せてスマホを覗き込んでいた二人連れの男女が、立ち上がって僕たちに席を薦める態度に、
「え?私?いいんですか?」
「パパ、お言葉に甘えて、坐りましょうよ。有難うございます」
ママのお礼を聞くまでもなく、二人それぞれが、取り出したスマホに見入って笑っています。
「目の前に、くたびれたジジイとバアチャンが立ってたから・・」
「キミが立ったから、ウチもしかたね・・・」
とかなんとか、交信しあっているのかもしれません。
「この日本も、まんざらでもない、のかな」
思わずいつにない、楽観的な感想を漏らしながら、ちょっといい気持で、家に帰りついたのです。

ところが、いけません。世界一平和な国かもしれない、なんて、とんでもない初夢、幻夢に過ぎませんでした。家に帰りついて、テレビを点けたとたんに、快い酔いも、一時に褪めるようなニュース映像が飛び出してきました。
同じ横浜でも、一方では、同時進行で、こんなとんでもないことが、起こっていたのです。
目前に映し出されているのは、なんと、同じ横浜市内の、ある成人式会場での出来事でした。
広い会場にぎっしり詰めかけた新成人への、主賓の祝辞が述べられている最中です。
私語も交わさず熱心に聴き入っている新成人たちの後方席の一角で、何があったのか、床に倒れた一人を、アニメ漫画の戦士のようなマント様のものを羽織った服装の男一人が、殴る、蹴る、の暴行を執拗に続けている映像が流れているのです。偶々近くにいた誰かがスマホで撮った映像のようです。
そこに映し出された映像は、周囲の誰も、制止する手が出せないほどに、まるで殺意でもあるように、あるいは狂ったように、実に残忍な殴り方蹴り方で、床に倒された相手を執拗に痛めつける男の姿でした・・・しかも、次に現れたほかの映像では、なんと会場内の別の一角でしょうか、爆竹とも思われるものが点火されて火花を散らしている、信じられない様相だったのです。
最近の、モラルの崩壊を、まざまざと見せられた思いがしました。
しかもその映像に添えられた音声解説で、この会場では、このようなことが数年前から行われていて、年を重ねるごとにエスカレートしてきている、と告げていました。いったい何が、この狂態を生んだのでしょう。道徳の向上どころか、荒廃そのものです。
さらに、金銭を狙って、怨恨も何もない一人暮らしの高齢老人を殺す、という凶悪な犯罪も報道されました。たしかに、近頃急速に、簡単に人を殺す犯罪が増えています。人命の尊重などには目もくれない、まるで、ゲーム感覚なのだと思わざるを得ない殺人です。
「そうか・・・」
こころよく飲んだ酒の酔いは、まるっきり醒めて、考え込んでしまいました。僕は、そこに連なるある言葉に気がついたのです。
格差です。中華街の通りで感じていたもやもやしたものが、はっきりと形を整えて見えてきたのです。
経済的にも、精神的にも、この国では、最近とみに格差が広がっています。あらゆる争いは、格差から引き起こされているという事実は、敢えて申し上げるまでもなく、明白です。
平成の時代は、戦後の経済の成長と土地改革がもたらした中産階級と呼ばれる人々、いわば、特に金持ちではないが、生活にゆとりが持てる中間の富裕層が、人口の大きな中心部分を占めていたのです。でも、その後の行き過ぎた成長経済活動は、人口の都市集中の流れを生み、さらに進んで、中小都市から大都市へと人口が移動して、遂には東京都心を中心とした東京圏に人口が集中すると共に、大きな格差を生んでしまったのではないでしょうか。
ちかごろ、ある大臣が、大学受験制度に関連して「それぞれの身の丈に合った教育を・・・」とやって、顰蹙を買いましたが、僕は、「身の丈に合った」ということは、ヒエラルキー(階級制度)とは違って、相応の、という意味で、ある種必要な戒めであると思うのです。
あるキリスト者の女性が「置かれた場所で咲きなさい」と諭した言葉が表題にされた本がベストセラーになったことがあります。それぞれの置かれた境遇で、立派な花を咲かせる、という戒めの言葉です。身の程をわきまえずに高望みをするなという事でしょう。
教育の機会均等ということは、全部の人間が全部大学教育を受けなさいということとは当然違う問題ではないかと思うのです。一つ間違えれば、暴言になってしまいますが、大学に行きたくない人が、無理に大学に行かなくても、希望の道に進む機会が持てるようにするのが、真の教育改革ではないでしょうか。あえて、暴論のそしりをおそれずに言えば、大企業側も、採用条件に大学卒という枠を嵌めずに、真の実力を基準に検定して人材を確保すればいいのです。
「朝鮮の脅威!中国の野望!」
外にばかり目を向けて、日本国内の実情を見落としていると、「世界で一番平和なニッポン」」は、ある日たちまち崩壊してしまうかも知れませんよ!


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