西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い」 №25 [文芸美術の森]
シリーズ≪琳派の魅力≫
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第25回: 尾形光琳「紅白梅図屏風」 その6
(18世紀前半。二曲一双。各156×172.2cm。国宝。熱海・MOA美術館)
第25回: 尾形光琳「紅白梅図屏風」 その6
≪嬲(なぶ)嬲る?≫
尾形光琳の「紅白梅図屏風」は、どこか幻想的で妖しい雰囲気をたたえているために、その隠された主題をめぐっては、これまでにいくつもの説が提示されてきました。その中で、一度それを聞いたら、この屏風絵を見るときにその説が脳裏から離れないというくらいインパクトのある見方を提示した研究者がいました。昭和39年(1964年)に小林市太郎氏(元神戸大学文学部教授)が発表した見解です。
小林氏いわく「この屏風絵は、全く『嬲る(なぶる)』という字を絵で描いている。まず中央の豊満な水の流れ、それがちゃんと女体になっていることを、なぜ人は見ないのであろうか。」
【嬲る】という字を大きく書くと:
嬲(なぶ):もてあそぶ、からかう、いじめるなどの意味
小林氏いわく「この屏風絵は、全く『嬲る(なぶる)』という字を絵で描いている。まず中央の豊満な水の流れ、それがちゃんと女体になっていることを、なぜ人は見ないのであろうか。」
【嬲る】という字を大きく書くと:
嬲(なぶ):もてあそぶ、からかう、いじめるなどの意味
ご覧の通り、男二人の間に一人の女が挟(はさ)挟まれた形となっています。
小林氏はさらに続けて「白梅は光琳自身、紅梅は光琳のパトロンだった中村内蔵助、あいだの川はおさんという女であって、男二人で我がものにせんと競い合っている・・・」とまで言っています。
確かに中村内蔵助は、金銀貨幣の鋳造を請け負う京都銀座役人で、貨幣改鋳による手数料で巨額の富を得た人物であり、絵師となった尾形光琳の支援者でもありました。かつ、ともに能楽などを楽しむ親しい友人でした。
光琳は、「中村内蔵助像」(元禄17年。1704年。重文。奈良・大和文華館)を描いていますが、これは光琳には珍しい人物画です。(左図)
おさんという女性も、光琳の生涯を彩った女の一人のようです。
小林市太郎氏のこの説を聞いてから「紅白梅図」を見ると、確かに、そんな風にも思えてくるところがありますね。
光琳は、「中村内蔵助像」(元禄17年。1704年。重文。奈良・大和文華館)を描いていますが、これは光琳には珍しい人物画です。(左図)
おさんという女性も、光琳の生涯を彩った女の一人のようです。
小林市太郎氏のこの説を聞いてから「紅白梅図」を見ると、確かに、そんな風にも思えてくるところがありますね。
私としては、そこまで具体的に想像を広げることはできませんが、そうは言え、屏風の実物を目の前にして、じっと眺めていると、小林氏の言っているような情感はよく伝わってきます。
≪エロスの香り≫
この絵から伝わる情感、それは“エロスの香り”であり、とりわけ、豊かに膨らんだ黒い川のかたちと、渦を巻いてゆったりと流れる流水のたおやかな曲線には、なまめかしさのようなものを感じます。
もっと言えば、この黒い川の形と流水文は、うち伏せた女性の流れるような“黒髪”を感じさせるものがあります。
そう言えば、平安王朝時代には、女性の美の基準のひとつは“長い黒髪”でした。当時の貴族社会では、男が女のもとに通うかたちで愛が交わされていましたが、朝になって男が去ったあとの女の“乱れ髪”は、愛の余韻と別れの哀しさを象徴するものでした。いわば黒髪は“女の情念”を象徴するものであり、エロスの香りを漂わすものだったと言えましょう。
もっと言えば、この黒い川の形と流水文は、うち伏せた女性の流れるような“黒髪”を感じさせるものがあります。
そう言えば、平安王朝時代には、女性の美の基準のひとつは“長い黒髪”でした。当時の貴族社会では、男が女のもとに通うかたちで愛が交わされていましたが、朝になって男が去ったあとの女の“乱れ髪”は、愛の余韻と別れの哀しさを象徴するものでした。いわば黒髪は“女の情念”を象徴するものであり、エロスの香りを漂わすものだったと言えましょう。
平安朝時代の歌集や物語などを見ると、いくつも“黒髪”を詠んだ歌を見出すことができます。二つほど、例を挙げましょう:
「黒髪の乱れもしらずうち臥せば
まずかきやりし人ぞ恋しき」(和泉式部)
まずかきやりし人ぞ恋しき」(和泉式部)
(意)黒髪の乱れをも気にせず、一人で横たわっていると、この黒髪を撫でてくれた恋人が恋しくてたまらない。
「ながからむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝はものをこそ思へ」(待賢門院堀川)
乱れて今朝はものをこそ思へ」(待賢門院堀川)
(意)あなたの愛が長続きするかどうか分からない。この黒髪が乱れるように、今朝はもの思いに沈んでいる。
尾形光琳という人は、若い頃は遊興の巷に出入りして、分けてもらった財産を使い果たしてしまったと言う放蕩息子でした。
また、光琳の生涯を何人もの女が彩ったようです。
同時に、若い頃の光琳は、裕福だった上層町衆の息子として、王朝文学に親しみ、能を舞うという教養を身につけていました。
同時に、若い頃の光琳は、裕福だった上層町衆の息子として、王朝文学に親しみ、能を舞うという教養を身につけていました。
そして、幾星霜を経て、この「紅白梅図」は描かれました。晩年の光琳の胸中には、そのようなものがこもごも交錯し、響き合って、夢の中のような玄妙な絵画世界が生まれた・・・そんな風にも思えます。
もしかすると、「紅梅」は自分の若かったころ、「白梅」は晩年の自分を表わしたのかも知れない、などと思ったりもします。とすれば、この絵の世界は、老境に入った光琳の“心象風景”とも言えるのではないでしょうか。皆さんはいかがですか?
もしかすると、「紅梅」は自分の若かったころ、「白梅」は晩年の自分を表わしたのかも知れない、などと思ったりもします。とすれば、この絵の世界は、老境に入った光琳の“心象風景”とも言えるのではないでしょうか。皆さんはいかがですか?
ともあれ、「紅白梅図屏風」は、琳派の代表的な絵師・尾形光琳の芸術的資質がよく表れている屏風絵であり、その画業の集大成とも言える作品です。皆さんも、梅の花咲く季節に熱海のMOA美術館に出かけて、この屏風の前にたたずみ、思いをめぐらしてください。
次回は、ちょっと趣向を変えて、尾形光琳の「紅白梅図」が世紀末ウイーンの画家グスタフ・クリムトに与えた影響について、言及したいと思います。
2019-12-29 01:20
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