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立川陸軍飛行場と日本・アジア №183 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川陸軍飛行場異本・アジア №183

             近現代史研究家  楢崎茂彌

 憲兵上等兵に司法警察権を付与
 前回、立川憲兵隊の馬が交代したことを紹介しましたが、この年憲兵の制度にも大きな変更がありました。
 183-1.jpg 「東京日日新聞・府下版」(1933.11.16)は次のように報じています。“非常時警察として最近民衆に一段と刻明な印象を与えている憲兵の活動に就いて、職務執行上大多数を占める憲兵上等兵の独立執行権は従来認められていなかったが、去る十日愈々憲兵軍令に依って憲兵上等兵も下士同様陸海軍一般に対して独立警察権を付与するに到り、憲兵の警察活動は非常な拡大をみた。”と報じています。
  「日本憲兵昭和史・上巻」(軍警会編集主任寶来正芳著・川流堂小林又七本店1937年刊)によると、この年10月に憲兵上等兵を伍長勤務にしたので給料増やすことを決めたという記述があり、憲兵上等兵が下士官として扱われることになったことがわかります。
   憲兵兵は、志願者から選考する場合と指名による場合ありました。この年に憲兵の選考試験を受けた関東軍の土屋芳雄上等兵に取材した「聞き書き ある憲兵の記録」(朝日新聞社1985年刊)によると、土屋さんは自分を過小評価した憎い上官に報復する機会を得る狙いで志願します。また、多くの受験者も憲兵の職務に惚れ込んだ訳ではなく、土屋さんは“鉄砲玉の飛び交わない後方部隊の憲兵であれば、命を落とす危険がより少ない、という計算づくの志願が多かったのではないか。その証拠に、志願者の多くは旧制中学や大学でのインテリだった。作戦に参加して、目の前でバタバタ戦死者が出るのを見た連中が、命惜しさに志願したに違いない”という感想を述べています。
   筆記試験は、小学校高等科卒業の土屋さんも大卒の連中も同じ内容でした。応募者は865人で合格者は150人、合格者の内大卒は12人、旧制中学校85人、残る三分の一が尋常高等小学校卒でした。そして教育中に不適格とされて18名が原隊復帰とされています。
   合格者の気持ちはどんなものだったのでしょう。憲兵向けの月刊誌「憲友」(1933年8月号)に、“憲兵上等兵拝命所感”という記事が載っています。筆者の高松七郎上等兵は、小学校の時に特別大演習を見学して初めて憲兵を見ます、その時の感想を“あの「カーキ色の軍服」、「赤い長靴長くぴかぴか光った軍刀」「肩から斜めに背負ったピストル」、そして栗毛の肥馬に跨がったスッキリと粋な姿。何と好きでたまらない。其の時から私は軍隊に行ったら憲兵さんになろうと思っていた。”と書いています。徴兵検査のあと朝鮮の部隊に配置され騎兵からあこがれの憲兵となった高松七郎は、拝命感謝の言葉を綴っています“現世、就職難に苦しむとき、専門学校卒業者ですら職にありつけない、又幸いありついても、飛び込み五十円の俸給を貰うことは容易でない。然るに自分は本俸諸加俸手当を合算して八十円余りの優遇だ。世界の不況は続く、財界は動揺する大会社、工場、銀行等よりは弥が上にも失業者を送り出し、世は挙げて失業群の洪水である。求職の叫びは深刻である。今日幸いにも吾々は自己の天職に最善を尽くせば失業馘首の心配はない。故に自分は生きんが為ではなくよりよき人間生活の為に奮闘を続けよう。功は急がず不断の努力を続け「千里の道も一歩より」子ども心に抱いた憧れの憲兵、希望に燃えた憲兵飽迄初心を有意義に、之を信念として本科の為に精励しよう。”俸給や失業のことが正直に語られており、憲兵隊もこの優遇を売り物にしようとしているようにも思えます。
   こうして合格した憲兵上等兵の職務はどんな内容だったのでしょう。「日本憲兵昭和史・上巻」は、戦時内地憲兵の活動として、言論機関の取り締まり、外国人の行動観察、反軍反戦運動の取り締まり、流言飛語の取り締まり、などを列記しています。第四項“輿論喚起と一般民心の趨向”では“満州事変勃発以来憲兵は軍当局並地方官民と協力し輿論の喚起に努め、満州事変は我権益擁護並居留民保護の為、真に巳むをえざる自衛行動なる旨を力説高唱し、一面新聞記者を通じて輿論の指導統一を図り、出動部隊、戦死者遺骨、戦傷者の著発時には軍部地方官衙と連絡し送迎を盛ならしむるに盡力せり。軍部に於いては事変勃発と共に在郷軍人会並地方官民有志、青年団等と協力し国防の必要を高調し、時局問題に対する国民の認識を高め輿論統一に努めたるが、憲兵の知得せる軍部の講演会は一ヶ月平均六十四、聴衆約三万五千に達し、国防思想の喚起に多大なる効果を収めたり。”と記しています。憲兵は取り締まりどころか世論の誘導までを任務にしていたのです。
  「東京日日新聞」の記事は“軍令に依る憲兵上等兵の権限拡大は一般に大きな期待を持たれているが、府下唯一の憲兵部隊立川分遣隊ではこの程より、上等兵全部一般兵科の下士勤務腕章を左腕に付している”と締めくくっていますが、国民は憲兵にどんな期待を持ったのでしょうか。
 
  銃後を守る私達も在郷軍人である
 北多摩郡連合女子青年団では、11月15日に行なう、国民更生運動非常時女性訓練大会に向けて、11月4日に府中町で委員会を開き、式次第を検討しました。各町村から20名ずつ合計600名が参加する大会では、知事の183-2.jpg告知などのあとに、「銃後を守るわたしたちは在郷軍人である」という決議をして、女性に対する非常時認識を徹底させる実地訓練を行なうことに決しました。実際にどんな訓練が行なわれたかは不明ですが、「東京日日新聞・府下版」(1933.10.6)は、八王子市富士森公園で行なわれた小宮村(現八王子市の一部)女子青年団の射撃訓練を次のように報じています“日差しを一杯にあびた八市富士森公園で、南郡小宮村女子青年団員約四十名が、百七十名ほどのカーキ色に交じって郡下トップに敢然と展開した非常時風景だ。中には引き金を上にしてぶっ放しそうな娘さんもいるが、ともかく在郷兵に教えられ標的に向かって寝撃ちの構えやっている姿は勇ましくもまたたのもしい。国境警備の図だ。「とても素敵!」感想第一番がこれだ。こわごわと引き金を引いた瞬間にダダーンと炸裂する音響、グッと肩に来る反撃、それが若い肉体に伝わってかの女たちの血が踊る。弾もはずんでなかなか当たらない。三発ずつ撃つが一発を当てるのは五人に一人位‥。”在郷軍人会が女性たちに非常時気分を吹き込んでいる訳ですね。
 
  「東京音頭」を排撃
 10月25日には、同じ府中町で、各町村女子青年団員代表達が集まって北多摩郡女子青年団更生座談会が開か183-3.jpgれています。東京府からは学務部長や青年団関係主事などが出席し、団服を制定することなどを決定しました。娯楽関係の話題になると、大和村の代表から“団員が緊張するような娯楽を希望する”という、大流行している「東京音頭」を排撃する発言が飛び出し、これを支持する発言が相次だと「東京日日新聞・府下版」(1933.10.26)は報じています。連載NO.175で紹介したように“東京よいとこ 日の本てらす 君が御稜威(みいづ)は、君が御稜威は天照らす“と天皇を讃えたのも効果がなかったか‥。でも代表達は排撃で盛り上がっても、女子青年団員たちは楽しそうに踊ったに違いありません。

  
  写真1番目  憲兵の伍長勤務腕章   「読売新聞・三多摩読売」1933.11.17
  写真2番目  女子青年団の射撃訓練  「東京日日新聞・府下版」1933.10.6
  写真3番目  更生座談会に出席した人々「東京日日新聞・府下版」1933.10.26


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