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対話随想余滴 №24 [核無き世界をめざして]

余滴24    中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 その後、お身体の具合如何かと案じています。
 離れた土地に住んでおりますと、お見舞いにも行けず申し訳ありません。最近では思いもかけぬことばかりが発生し、日々その対応に追われている有様です。
 その一例が、温泉が出なくなったことです。関さんのお手紙に、浴槽に入れないのでシャワーを浴びて おられる話がありましたが、その時、我が家の温泉で療養されてはどうかとふと思ったことでした。なぜならば、家を建てる時、女性の設計士の方が股関節を手術した妻のために浴室にも手すりをつける設計が施されていたからです。
 ところが、その温泉が突然出なくなったのです。温泉は、地下二〇〇メートルの温泉から汲み上げられて給湯タンクに貯蔵し、各家庭に配られる仕組みになっているのですが、それが突然不可能になったのです。パイプの一部が腐食しているということで、一回り太いパイプと交換して入れ替えたところ、源泉が消え失せていたのだそうです。最近、温泉の掘削が厳しくなりましたが、一〇〇メートル以内での再掘は許可されているのだそうです。けれども、その範囲内に源泉はなかったのです。
 温泉のある終の棲家と思って、東京から移住して来た私ですが、自然の力の前には諦めるより仕方がないということなのでしょう、入浴は、身体を動かすことが不自由になった高齢者にとっては、唯一の心の安らぎを得る場所ではないでしょうか。私は、浴室の洗面台の前に椅子を置き、浴槽で身体を暖めては座ってシャワーを浴びるようにしております。しかし、若い頃、自分がそのような姿で入浴するようになろうとは、夢にも思ったことはありませんでした。
 温泉が出なくなった原因は、近年、新しく豪華なホテルが建設され、また既存のホテルの屋上に、海が展望できる棚湯と称する露天風呂が開設されるなど、常時、多量の温泉が汲み上げられ、消費されるため、その付近一帯で温泉が出なくなったという話も聞いております、
 このたびの台風15号による千葉県下の停電、断水の被害を思うと、温泉が出なくなったぐらいで不平を言ってはいけないと思いました。
 お手紙を読みながら、被爆直後の広島での電気、水道の状況を鮮明に思い出しました。
停電が続いた暫くは、夜になると溶かした蝋石の中に布切れで繕った芯を浸して明かりとし、断水中は井戸水を組んで使用したことなぞが記憶によみがえってきました。
 そして、関さんが毎日新聞社に入社された時、最初の赴任地が千葉だったというのも何かご縁があったのだろうと想像しました。
 そのようなことを考えていた折しも、杵築市熊野に住んでおられる池尾照美さんという方から葉書が届き、末尾にご自分の近況が書き添えられていました。池尾さんについては、以前に「往復書簡」でご紹介したことがありますが、私が大分合同新聞社に書いたエッセイを読んで手紙をくださった人です。彼女は東京に在住の頃、私が住んでいた杉並区八成の同じ借家に住んでいたという人です。杵築に移住してこられ、「風の空間」という和食の店を開いておられました。
 葉書には、
 私も六月二十五日に左足かかとを骨折して三カ月余り、不自由な毎日でした。九月に入り、松葉杖を返上、そして一週間程毎にリハビリ杖も返上。まだうまくは歩けませんが、日常生活が戻りつつあります。
 と書かれていました。
 まさに「老人は転ぶな、風邪ひくな」というある人の言葉が、身に沁みて感じられる今日この頃です。
 このたびのお手紙には、黒川万千代さんにまつわるアンネ・フランクの薔薇、広島の焼け跡に残った一株のハマユウの話は感動的でした。関さんにとっては姉上に当たられる黒川万千代さんには『原爆の碑』(1976年8月6日発行)という立派な著があります。
 その「はじめに」の中で黒川さんは、
      慰霊碑――広島の心、と題して
 ヒロシマの原爆の慰霊塔は百以上もある。平和公園の有名な碑から、郊外の空地にひっそりと建てられた、忘れられた碑まで――その一つ一つに、残されたものの悲しみと憤りがこめられている。三十年たっても消えぬ心の痛みがこめられている。
 ここ数年、原爆慰霊碑の写真を撮るために、仕事の合間を縫って、東京から広島へ通い続けた。多くの慰霊碑に、いつ行ってもきれいに掃き清められ、花が添えてあった。被災の地に建てられた慰霊碑で、その周りに関係者は、誰も住んでいないのに――。頼まれたわけでもないのに近所の人たちが毎日清掃し、花を捧げているのだった。「これが広島の心ですよ」と言葉少なに語って、そっと花を置く人たちだった。
 と書かれています。
 これを読んだ人たちは、広島平和公園のアンネ・フランクの薔薇、広島市からハマユウ三株をわけてもらい、一九八八年、ロシア正教会一千年記念式典に贈ったのは黒川さんを介してのことに他ならないことは、容易に察することができます。まさに、広島の心と言うべきでしょう。
 そして、その手紙の続きには、ヒロシマ軒として沼田さんの青桐のことが書かれていましたが、頃を同じくして、一〇月一日の朝日新聞・第二大分版に、広島長崎の中間点である福岡県上毛町で平和を願って植樹の記念行事があったことが報告されていました。
 新聞には、次のように報じられていました。

 被爆後も枯れずにいた両市の樹木の種や苗から育てたクロガネモチ、イチョウ、クスノキ等の「被爆樹木」が、町内の大池公園に植樹された。町と広島東南ロータリークラブ、長崎南ロータリークラブが協力し、「未来へつなぐ平和の架け橋事業」として準備を進めてきた。
 被爆樹木の植樹は午前中にあった。公園内の池の東岸に設けた『広島の丘』と西岸に設けた「長崎の丘」に、坪根秀介町長、両ロータリークラブ代表、地元中高校生らが植えた。その後モニュメントを除幕した。
 式典もあり、約三〇〇人が出席した坪根町長が「中間点の町として平和を発信する拠点となり、すべての町民が核兵器の廃絶と平和な世界の実現を誓う」と、平和宣言を読み上げた。
 松井一実・広島市長と田上富久・長崎市長も出席。

 記事には、「広島の丘」、「長崎の丘」で植樹する男女・中学生の写真が掲載されていました。こうした記事を読みますと、残された日の少ない私たちには、次世代に平和が繋がれてゆく光景が浮かび上がってきます。
 このたびのお手紙によって、関さんの絶えざる平和への思いと行動を知り、生きることの何かを教えられたような気がしております。そして調布の町の話、一中時代の友人の消息を知り、歳月を経ることの速さを覚えずにはいられません。

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