医史跡を巡る旅 №61 [雑木林の四季]
「西洋医学事始め・蘭学の泉はここに」
保健衛生監視員 小川 優
聖路加国際病院の南側、聖ルカ通りに面して三角形の緑地帯があり、二基の石碑が建っています。ひとつが「慶應義塾発祥の地」碑、そしてもうひとつが「蘭学の泉はここに」碑です。
「慶應義塾発祥の地」・「蘭学の泉はここに」碑
「慶應義塾発祥の地」・「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町
ここは幕末、中津藩の中屋敷があったところです。中津藩は蘭癖大名として有名な奥平昌高で知られるとおり、蘭学を奨励していました。前回、日本橋の長崎屋について触れましたが、江戸も長崎出島と並び当時の最先端情報が入手できる場所があり、中津藩中屋敷もその拠点の一つであったわけです。
「慶應義塾発祥の地」碑
「慶應義塾発祥の地」 ~東京都中央区明石町
慶應義塾を作ったのは福沢諭吉、中津藩出身です。福沢諭吉は緒方洪庵のもと、大阪適塾で学びます。本人は血を見るのが苦手だったようで、もともと医者になるつもりはなかったようですが、蘭学を学ぶ中で西洋医学の必要性は強く感じていました。ただし慶應義塾開学時には教師等体制が整わず、やっと(1873)に慶応義塾医学所設立にこぎつけますが、7年ほどで廃止の憂き目にあいます。のちに北里柴三郎を迎えて、大正4年(1917)、慶應義塾大学部医学科が開設されますが、その時にはすでに、諭吉自身は他界した後でした。
「蘭学の泉はここに」碑
「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町
そしてオランダ語に長じていた前野良沢も中津藩医。中屋敷内に良沢の住まいもあり、ここに杉田玄白、中川淳庵が集まり、「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り組みます。そんな故あって、この場所を蘭学のはじまりとしたのが、この碑です。このあたりはのちに築地居留地となり、アメリカ公使館がおかれたり、運上所(税関の前身)が開設された地で、まさに明治初期には開化の窓口となります。
「運上所跡付近の隅田川遊歩道」
「運上所跡付近の隅田川岸辺」 ~東京都築地七丁目
「遊歩道にある中央区案内板」
「遊歩道にある中央区案内板」 ~東京都築地七丁目
川幅のある隅田川を登り、川岸を船着場とすることで海に面した港がなくとも、居留地として機能を果たすことが出来ました。居留地がなくなってからは、海軍関係の施設が立ち並ぶこととなります。かなり大きな船が通れるように、隅田川に架けられた昭和15年に完成の勝鬨橋も、中央部が跳ね上げ式の可動橋として設計されています。
「勝鬨橋」
「勝鬨橋」 ~東京都築地七丁目
勝鬨橋の向こうには、築地市場がありました。築地市場にも船着場があり、漁船が直接市場に水揚げできるようになっていました。このように隅田川はしばらく前までは、水運の大動脈でありました。
ちなみに聖路加病院も元々の起源は、ここが居留地であったことを所以としています。
ちなみに聖路加病院も元々の起源は、ここが居留地であったことを所以としています。
「聖路加国際病院」
「聖路加国際病院」 ~東京都中央区明石町
「蘭学の泉はここに」碑の近くの公園には、シーボルトの胸像があります。
「シーボルトの像」
「シーボルトの像」 ~東京都築地七丁目 あかつき公園
シーボルトは幕末の商館付医師で、普段長崎にいたわけですから、江戸、それもこの辺りに直接縁があったことを伝える史実はありません。なぜここに?と訝しく思って、説明文を読みます。
「シーボルト(1796~1866)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(1823)七月、長崎に到着し診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同九月正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことからここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。中央区教育委員会」
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(1823)七月、長崎に到着し診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同九月正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことからここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。中央区教育委員会」
ちなみに、いねが開業した産院がどこにあったかは、今一つはっきりしません。
「シーボルトの像」
「シーボルトの像」 ~東京都築地七丁目 あかつき公園
シーボルトの胸像はオランダ・ライデン大学とイサーク アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として寄贈されたものだそうです。
なんとなく釈然としないままですが、蘭学の泉篇はここまで。次回はやっと、「解体新書」翻訳のお話に移ります。
2019-09-11 08:03
nice!(1)
コメント(0)
コメント 0