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余は如何にして基督信徒となりし乎 №71 [心の小径]

基督教国の偽らざる印象 ー 帰国 12

                内村鑑三

 五月十六日 正午 晴、午後ハ靄(もや)アリ。― 年前十時頃、余ノ国土ノ視界二来レリ。昨日正午ヨリ二八二哩(マイル)ヲ走ル。ナホ六三哩、而シテホームナリ。― 創世記第三十二章ヲ読ム。余ハ此ノ流竄(りゅうざん)ノ歳月ノ間二神ノ余二示シ給とシ凡テノ燐ミノ最小ノモノニスラ値ヒセザルモノナリトノ思想ニヨリテ多大ノ慰謝(なぐさめ)ヲ得。彼ノ恩恵ハ人生ノ悲シキ経験ニヨリテ遣サレシ凡テノ真空ヲ満タスナリ。余ハ知ル、余ノ生涯ノ彼ニヨリテ導力レタルヲ、而シテ余ハ多クノ恐怖ト戦慄トヲ以テ祖国二帰ルト撃、馨ヲ怖レズ、ノバ彼ハナホ余こ対シ御自身ニッイ
テ更二多クヲ明示シ給フベケレバナリ。
 夜半。午後九時三十分、家二到着ス。神二感謝ス、余ハ約二万哩ノ旅ヲ了へ遂二此処二在ルヲ。全家族ノ歓喜、際限(きわまり)ナシ。恐ラク余ノ貧シキ両親ノ嘗(かつ)て経験セシ最も幸福ナル時ナリシナルベシ。弟ト妹ハ大キクナレリ、前者ハ元気ナル若者、後者ハ美シキ娘トナレリ。父ト終夜語り合へリ。母ハ世界ノコトハ知ラント欲セズ、タダ己ガ子ノ無事二家二帰リシヲ喜ブノミ。余ハ神ニ感謝ス、余ノ不在ノ此ノ歳月ノ間中、余ノ家族ヲ守り給ヒシコトヲ。余ノ祈祷ハ、余ノ父ノ無事ナルヲ見テ余ノ見聞セシ凡テノ事ヲ彼二告ゲンコトナリシナリ。

 『ヤコブはまた言った、父アプラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに、「おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け、わたしはおまえを恵もう」と言われた主よ、あなたが僕(しもべ)に施された恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、杖のほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの祖にもなりました』(創世記三十二車九、十節)。これが主が名誉を与えたまおうとする者の状態である。ヤコブはハランにおいて彼が追い求め祈り求めてきたすべてのものを得た、レアとラケル、子供、羊を。余もまた、彼の貧しい僕であるが、基督教国において余が追い求め祈り求めてきたすべてのものを得たのである。なるほどヤコブが恵まれた種類のものではなかった。なるほど余の事情はこの点においてははなはだ窮迫し、海陸二万マイルをこえる流竄ののちに余はポケットに残されたわずか七十五銭を有するにすぎなかった。余がたずさえ帰った知的資本もまた、余と同年輩および同境遇の国人の普通に持ち帰るものとくらべて大したものではなかった。科学、医学、哲学、神学、― こういう種類の一枚の卒業証書も余の両親を喜ばすべく彼らへの余の贈物としてトランクのなかに持っていなかった。しかし余は自分が得ようと望んだものを得た、しかり、ユダヤ人には躓(つまず)くもの、ギリシャ人には愚かなもの』である――である。なるほど余はそれを基督教国にわいて余が予期していたような方法で見つけなかった、すなわち余はそれを街頭にて、あるいけ教会あるいは神学校においてさえ、拾ったのではなかった、しかし種々のまた相反する方法において、余はそれをそれにもかかわらず得たのである、そして余は満足した。これが、それゆえ、余の両親と国人とへの余の贈物である、彼らがそれを好もうが好むまいが。これこそ人間の希望、これこそ万民の生命である。いかなる哲学も神学も人類の歴史にそれの占める場所を占めることはできない。『わたしはキリストの福音を恥としない、それはこの福音はユダヤ人を初めギリシャ人にも、すべて信ずる者に救を得させる神の力であるからである。』
 余は夜遅く我が家に着いた。丘の上に、杉垣に囲まれて、余の父親の小家屋が立っていた。『お母さん』余は門を開けながら叫んだ、『あなたの息子が帰って来ました。』苦労の影を増した彼女の痩せた姿の、いかに美しき! デラウエアの友人の選んだ美人に認め得なかった理想的美を、余は再び余の母の神聖な姿において見出した。そして余の父、この広漠たる地球上に一エーカーの十二分の一の部分の所有者、― 彼もまたりつばな英雄、正しいそして忍耐の人である。ここは、それゆえ、余がそれを余白身のものと呼んでよい、またそれによって余がこの国土と地球とに繋(つな)がれる、一地点である。ここは余のホームにしてまた余の戦場でもある、余の奉仕、余の祈り、余の生涯を自由に捧げしめるであろう地である。      
 余の帰宅の翌日、余は異教徒によって発起されたという一基督教カレッヂの校長の地位への招請(しょうせい)を受けた。奇妙な組織なるかな、これは、世界の歴史に独一である。余はそれを受諾すべきであろうか。
 しかしここでこの書は閉じなければならない。余は諸君に如何にして余は基督信徒となりし乎を語ってきた。余の生涯が十分に多事なるものとなり、また読者諸君が余の話し方に倦怠(けんたい)したまわないならば、諸君にはこのようなもう一つの書を贈るであろう、題していわく『余は如何にして基督信徒として働きし乎。』        (完)

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 いわなみ

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