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余は如何にして基督信徒となりし乎 №70 [心の小径]

第十章 基督教国の偽りなき印象 帰国10

                  内村鑑三

 諸君の基督教が諸君自身のいろいろなイズムからふるい分けられ、諸君の常識が十分に鋭くされ(すでに鋭くなかったならば)、そして何よりもよいことは、悪魔が歳君自身の霊魂において戦い披かれて、諸君が異教徒に無限の善を為し得ないという理由は何もないとおもう。異教国はいままでそういう宣教師をもあ(神に感謝すべきかな)、そしてもっと多くのそういう人々を呼び求めつつあるのである。我々はすぐに彼らが他国人であるとは考えない。彼らが我々の言葉に通じていないそのことさえ彼らと我々との間には何の障害でもない。基督教は彼らのその眼にある我々はそれを彼らの我々との握手において感ずる。おお、いかに彼らが我々の間にて光輝を放つことよ! 彼らのその存在が暗黒を追いはらう。彼らは我々に対して説教する必要はない。我々が彼らのかわりに説教するであろう、ただ彼らをして我々を背後から支えしめよ。むしろ一人のそういうひとが幾ダース、幾膏の宣教師的冒険家と実験者より望ましい。『天使の長(おさ)も羨む事業 ― キリストを異邦人に伝える事業』である。天使の長彼自身のほかに誰がこの羨むべき事業に
従事し得るか。
 然り、基督教を我々は要するのである。我々はそれを我々の木と石の偶像を破壊するためだけ知に必要とするのではない。それらは異教国その他にて詩せられる他の偶像とくらペて無害のものである。我々は我々の悪をより悪として現し、我々の善をより善として現すために、それを必要とするのである。それのみが我々に罪を悟らせることがでる、そして我々にそれを悟らせて、我々を助けてそれ以上にのぼらせ、それを征服させることができる。異教を余はつねに人間存在の微温的状態と考える。 ―  それは非常に温かくもなく非常につめたくもない。昏睡的生命は弱い生命である。それは苦痛を感ずることがより少ない、それゆえ喜ぶことがより少ない。ディ・プロファンディス(深き罪より)は異教のものではない。我々が基督教を必要とするのは、我々を強化するため、我々の神には忠誠を、悪魔に対しては敵対を、誓うがためである。蝶の生命ではなくて、鷲(わし)の生命である。ピンクの薔薇の小柄な完全ではなくて、オークのたくましい強さである。異教は我々の幼年期には役立つであろう、しかし基督教のみが成年期に役立つ。世界は生長しつつある、我々は世界とともに成長しつつある。基督教は我々のすべてにとってなくてならぬものとなりつつあるのである。

 五十日間、余は、帰国の空、海上にあった。余は南十字星の下を航海した、真の十字架が立ち、偽りの十字架が倒れるのを見た。しかし諸君は余が愛する者たちとまもなく会って幸福であったと思うか。然り、敵との遭遇の後に征服を夢見る兵士が幸福であるという意味で幸福で」あった。余は彼によって見出された、彼は余をしばりたもうた、そして余の欲しないところへ余を連れて行くであろうと余に告げたもうた。銭湯を彼は余自身の小さな領域にて余に割り当てたもうた、そして余は否と答うべきでなかった。ああ、余は悪戦苦闘して彼を求めた。余は彼を発見した、そして彼は余に直ちに彼の戦場に行けと命じたもうた! これは武士の家に生れた者の運命である。余をして呟(つぶや)くことなからしめよ、ただ感謝の心をわだかしめよ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』

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