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論語 №79 [心の小径]

二五三 色みてここに挙(あが)り、翔(かけ)りて後(のち)に集る。のたまわく、山梁の雌雉(しち)、時なるかな、時なるかなと。子路(しろ)これに共(むか)う。三たび嗅(な)いて作(た)つ。

                法学者  穂積重遠

 本章はいささか難解でいろいろの説があるが、孔子様が雉の進退時を得たりとほめたことを語って、孔子様自身の進退こそ「時なるかな、時なるかな」とほのめかし、もって郷党第十の聖人描写を結んだもの、とする説がおもしろい。

 孔子様が門人たちと山路を行かれたとき、行手の山橋のほとりにおりていた雌雉が、人のけはいに一度飛び立ったが、一回り輪をかくと、害心なしと見定めて、再び元の所へおり立った。孔子様がこれを見て、「山路の橋の雌雉よ、飛ぶも返るも時を得たるかな、時を得たるかな。」と感嘆された。すると子路が、おとなげもなくつかまえようとでも思ったか、雉に近寄ったので、雉は三度鳴いて飛び去った。

 最後の二句を、子路が雉に食物を投げ与えたところ、三度かいだだけでたべずに飛び去った、という意味に解する説もある。
 中村正直が本章に関連して『論語』の文章につき左のごとく言っているのは、すこぶるわが意を得たものだ。
「色みてここに挙り、翔りて後に集まる、とは何物たるを言わず、読みて下段に至りて・まさにこれ雌雉たるを知る、絶世の妙文、天衣無縫なり。けだし郷党一篇、門人力を極めて描写し、聖人の声音笑貌(しょうぼう)、躍然として現出し、行住座臥(ぎょうじゅうざが)、八面倶(とも)に到る。儀礼・檀弓(だんぐう)。考工記皆及ぶこと能(あた))わず。知るべし、周人の文精妙絶倫、而して論語の文はすなわち又類を出で萃(すい)
を抜くもののみ。」

二五四 子のたまわく、先進の礼楽におけるは野人なり。後進の礼楽におけるは君子なり。もしこれを用いば、則ちわれは先進に従わん。

「先進」「後進」は「先輩」「後輩」である。ここでは殷(いん)末周初の人と周末すなわち当時の人をいう。ここの「君子」は現在の「紳士」というくらいの意味。「先ず礼楽に進むは」「後に礼楽に進むは」とよんで全然別の解釈をする人もあるが、省略する。

 孔子様がおっしゃるよう、「昔の人の礼楽に対する態度は、いなか者的質朴であった。
今の人の礼楽に対する態度は、紳士的華美である。いずれも完全ではないが、もしどちらか一つによれというなら、わしは昔流儀に従おう。」

 安井息軒いわく、「周公の礼を制する、文を尚(とうと)びて以て殿の質を変ぜり。すなわち周公の俗は必ず質文に勝てり。周道すでに衰え、孔子の時に至りては、文日に勝ちて質衰う。孔子これを周初の盛に反(かえ)さんと欲す。故に此の言を発せるなり。」

ニ五五 子のたまわく、われに陳蔡(ちんさい)に従いし者は、皆(みな)門に及ばざるなりと。徳行には顔淵(がんえん)・閔子騫(びんしけん)・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・仲弓(ちゅうきゅう)、言語には宰我(さいが)・子貢(しこう)、政事には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、、文学には子游(しゆう)・子夏(しか)。

「陳蔡方面に同行して共に難儀した門人たちも、あるいは死亡し、あるいは出(い)でて仕(つか)え、あるいは帰国して、今は誰も門下におらぬ。さびしいことかな。」と孔子様が晩年に歎息された。その人々は、徳行がすぐれた者としては顔淵・閔子騫 冉伯牛、言語にまさった者としては宰我.子貢、政治で聞えた者としては冉有・季路、文学に長じた者としては子游・子夏であった。

 この十人は編者の附記と思われるが、これがいわゆる「孔門の十哲」である。もっとも曾参(そうしん)・有若(ゆうじゃく)などという優等生がはいっていないが、この二人は若い門人で、陳蔡に随行せず、また当時門下にいたのであろう。なお冉有も「陳蔡に従いし者」ではないが、古い門人だから加えたらしい。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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