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渾斎随筆 №37 [文芸美術の森]

東大寺断想

               歌人  会津八一

 私はこれまで幾度奈良へ出かけて行ったものか、教へて見たこともないが、汽車で行っても電車で行っても、もう奈良が近くなると、私はいつもそわそわと立ち上って、窓をあけて、三笠山のこちらに大きく盛り上がってゐる大佛殿を眺める。おもへは奈良地方には、古くは三大寺、後には七大寺、十大寺、十五大寺、と大きな寺がいろいろあったけれども、この寺こそは、今にしてほんとに奈良の「おほてら」の名にふさほしい。鴟尾の光る、この「おほてら」の大きな屋根を、まだ停りもやらぬ車の窓から眺めただけで、もう奈良に着いてゐるといふ一種の歓びを、胸一ばいに感じる。
 なるほど、この地方には、法隆寺や、唐招提寺や、室生寺などのやうに、そこへ足を移せば、建物や、彫刻や、時として絵画にいたるまで ― やかましく云ふことになれば、たやすく創建のままとは云はれないにしても ― 割合に都合よく纏まって遣ってゐるので、そのほの暗くもの寂びた中に、それぞれ一番古い時代の雰囲気が、まだかなり濃く漂ってゐて、すぐ吾々をその奥へ曳き入れさうにする。けだし大和を行く古寺巡拝者にとって、これが何よりも大きな魅力であるらしい。私などもこの魅力には一とたまりもなく降参して、随処にうつつを抜かしたものである。けれども東大寺になるとそこのところがまるで違ふ。この寺で私どもが打たれるのは、まづその明るさ、そして、その大きと久しさである。詳しくいへば干何百年の久しさの上に亙るところのその大さである。
 聖武天皇が天平十五年十月に、国家的とも、世界的とも、ことによると宇宙的ともいふべき、その雄大な御理想のもとに御重願になったと考へられてゐるあの近江の紫楽の廬舎那佛の造顕を、後に此の地に移さしめられ、その大像をいつきまつらせんために建てさせられたのが、この東大寺であったことは、誰知らぬものもないほどのことであるが、それから後、いつの時代にも上下の庇護と讃仰とを受けて、いつも国史の中心とまでは行かなくとも、あまりかけ離れぬ所で世局の推移に参與したものである。すなはち本願の天皇の御遺物を正倉院に御預りして恙なく今日に傳へたといふ事も大した手柄には違ひないが、その間に或時は平家の目に障はって兵火に罹れば、すぐ後から源氏を大旦那にして全国的安寿のもとに再興するし、元弘の御世には御座所にもなった。三好・松永の騒乱に再び火災に遇っても、江戸時代にはひると、すぐ三度目の甍が空に聳え、明治になれば新らしい技法と新意匠とで目ざましい大修理が加へられた。つまり東大寺は天平時代だけの東大寺でなく、ずつと今日まで歴代の東大寺であったと云へる。たとへば大佛殿にしてもその中庭の大燈籠にしても、ことに本尊の大佛にしても、いづれも天平の●基の上には立ちながら、部分部分には、ありありと代々の變改を見せてるる。寺内には、三月堂のやうにしんみりと寧楽の盛期に堪能させるところもあるが、南大門に立てば、吾等はすぐまた目を瞑って、鎌倉の新容に駭く。それは建築や彫刻ばかりでなく、荘厳、佛具の類から、儀禮行事にいたるまで、その時代時代の文化的活動を、ほんたうによく、反映してゐる。それをこの寺の缺點にしてしまふわけには行かない。
 同じ古都の風物に向ふにしても古物の鑑賞や詩歌の嘯詠に遊ぶものと、史學の研究を名乗る者とは全然別々の道を踐むのであるから研究者ならば、すべからく代々の事相の變遷を在るがままに看取するばかりでなく、そのうちに一貫した展開の暁を掴みにかかるべきであらう。しかるに.いつの間にか、この人々の間にさへ、上代だけを尊重して、中頃から後のことは、ことさらに棄て果てて一向顧みるものにしない傾向が見えるのは、人情といふものであらうか、とにかく面白いまちがひである。先年「東大寺」といふ標題で、随分行き届いた圖録を作ってくれた人々があった。その時、私などはその緻密な用意に感服してゐたのに、一方では、天平以後の資料をあまり採り入れすぎたと云ふところに目かどを立てて、是を以て史的價値に乏しと非難した學者もあったといふが、かうなると、史的といふことのその人の考へ方は、私などとはまるで反対になる。古から今に及び、さらに想を未来にも及ぼしてこそ、ほんとに史的といふものではなからうか。正直にいへば、私のやうに、いい年をした後になっても空想がちな日を送って来たものにとっては、こんなことのけぢめを立てて、物を云ふにも、随分くすぐったい思ひをするが、それは私だけのことで、筋合はやはりかうしたものであらう。
 ところがかうした時局になって寺塔も時によっては迷彩でもあり佛像もどこかへ疎開をしなければならぬといふやうなことになると改めてまた考へさせられるのであるが、一たい美術をば、至上だの永遠だのと、誰が云ひ出したことであらう。さういふ御題目は、ろくろく美術の難有みを知らずに、疎末に扱って平気でやって来た世上のわからず屋には、充分に教へ込まなければならなかったのであらうが、生命は束の間なれども藝術は永遠なりなどと云って見てもつまりは人生あつての藝術にちがひなからう。藝術は人が作るのか自然に産れて来るものか、それはどちらにしても、とにかく人間あつてのことであれば、人間とともに變遷もあり、盛衰もあらう。そしてその背景の時代に、のつぴきならぬ関係があるものならは、時代の消耗を免かれるものではなからう。だから時代を超えた永遠性などを考へるだけ無駄なことである。
 吾々としては、唯いつの果でも反揆と復活とをその葉の上に求めで行くべきである。これこそ人生に於て芸術を永遠ならしめる一つの道、恐らく唯一の道であらう。
                                                     『文藝春秋』第二三巻第二号
                                                        昭和二十年二月

『会津八一全集』 中央公論社

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