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余は如何にして基督信徒となりし乎 №68 [心の小径]

第十章 基督教国つわりなき印象 ― 帰郷 9

                内村鑑三 

 しかし諸君は自分自身の国土の中に十分な異教徒をもっているのに、何故に異教徒に宣教師を遣(おく)るのであるか。
 ご承知の通りこの世は一単位であり、人類は一大家族である。これは余が余の基督教の聖書において読むところである、愛国心は、基督教的なものも、そうでないものも、このことを否定するように見えるけれども。諸君は他人を完全にすることなしに諸君自身を完全にすることはできない。囲繞(いじょう)する異教の真中にある完全な基督教国という観念は、不可能である。他の国民を基督教化することにおいて、諸君は諸君自身を基督教化するのである。これは実際の経験によって豊富に証明せられる哲学である。
 諸君がその外国伝道を中止し、その全勢力を国内伝道に集中すると仮定せよ。何を諸君は得るであろうか。めざましい回心が増加し、ウィスキーの害悪から免れた家庭が増加し、恥かしくない身なりの子供が増加する、これは疑いがない。しかしそれとともに何が起るか。異端征伐が増加し、教派的の陰口(かげぐち)が増加し、それとともにおそらく日曜学校の遠足と教会における『日本の花嫁』が増加するであろう。すでに千八百年以上にわたって基督教を所有してきた諸君は、一つの方向において為された善は他の諸方向において為さるべき善を減少せしめるというあの愚かなそして異教的な考えを、この時までには乗越えてしまっているとおもう。― 外側の生長は常に内側の生長を意味する。諸君が何か体内の倦怠(けんたい)になやんでいる。諸君は医師のもとに行く、そしす医師は諸君に妙薬につぐ妙薬を投ずる。しかし何一つ諸君を癒(いや)さない、諸君は医師に信用を失い始める。ついに諸君は自分の悩みの真の知識に到達する。諸君は自分の注意を内側から転ずる、すなわち諸君は自分自身を忘れる、そして諸君は何か外側の仕事におもむく、キャベツの栽培、それでもよろしい。かくて諸君は自由に呼吸し始める、諸君の二頭筋は少しく大きくなり引き締ってくる。徐々に諸君は自分の悩みが去ったのを感ずる、そして諸君は今や以前にまさる強健な人であることを感ずる。諸君は反射作用によって自分自身を癒したのである。諸君はキャベツに自分自身を引き渡した、そしてキャベツは諸君を癒したのである。
 教会についても同様である。異端征伐で剪定(せんてい)し新神学で治療すること決して彼らを癒さないかもしれない。いな、彼らはより悪くさえなるかもしれない。そこで或る賢い人々が彼らに外聞伝道を処方する。彼らはそれに参加する、そしてすぐにそれに関心を抱く。彼らは全世界を自分の同情の中に取り入れた、そしてそうすることによって自分自身の拡大するのを感ずる。かくして生じた新しい同情は、異端裁判と新神学治療とによって睡ってしまった晋の同情を呼び起こす。彼らが自分自身を自分自身に対して費(ついや)すことによって自分のうちに生還らせることに失敗したものが、自分自身を自分自身以外のものに対して費すことによって、今や自分に帰って来つつあるのを彼らは見る。諸君は異教徒を回心せしめた、そして異教徒は今や諸君を再回心せしめる。そういうものがヒューマニティーである、それほど密接に諸君は全人類と結ばれているのである。異教徒を憐れめと? 諸君は悲惨な境遇にある自分自身の兄弟を憐れむか。諸君は彼を恥じ、彼の悲惨な状態のために自分自身を責めないか。これが基督教外国伝道の真の哲学であると余は信ずる、そしてこれ以外の土台の上に開始された外国伝道は、ショーであり、芝居であり、その反対者によって非難せられ、またそれが派遣されたその異教徒によって無視せらるべきものである。
 しかし諸君は問う、君たち異教徒は基督教をもちたいのかと。
 然り、我々分別ある異教徒はそうおもう、そして我々のうちの無分別なものは、宣教師に石を投じたり、その他いたずらな事を彼らにするけれども、彼らがその分別を取り戻すやいなや、自分たちが間違ったことをしたことがわかるであろう。もちろん我々は基督教の名のもとにやってくる多くのものを好まない。聖麺●(ホスト)、自法衣(サープリス)、強制的の祈祷書、神学は、もしそれらが基督教そのものを我々の現在の心的発展の状態において我々に伝達するに絶対に必要かくべからざるものでないならば、我々はそれらのものは無しに済まされることを願うものである。我々はまたいかなるアメリカ教(Americanianity)とアングリカン教(Anglicaniarity)をも基督教として我々に押しつけられるのを好まない。我々のうち一人としてキリスト彼自身に石を投じたことはなかったとおもう。もし我々がしたとすれば、我々は全能者の御座そのものに石を投じたのである、そして我々は頁理そのものに裁かれるであろう。しかしキリストの名において自分自身の意見を我々に教え ― 神学と彼らはそれを称する ―、そしてまた彼ら自身の風俗習慣、『自由結婚』『婦人の権利』のようなもの、その他いずれも我々には多かれ少かれ好ましくないものを我々に教える宣教師たちに石を投ずるからとて、我々を叱責することなかれ。我々はこれを自己保存のためにするのである。カトリック教には堪えてもロマ・カトリック教には堪えられず、ピウスとかレオとかが諸君の学校問題やその他の公共問題に干渉することに対し、高壇の説教や新開の社説を真向に画とむかって彼らにたたきつける諸君よ、アメリカ教、アングリカン教、その他の外国の何教に反対する我々の抗議について、我々に同情を寄せよ。


『余はいかにして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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