渾斎随筆 №35 [文芸美術の森]
一片の石 2
歌人 会津八一
ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて●(「山+見」)山の頂に登つた。そして先づ羊●(「示+古」)のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。
人事代謝あり、
往来して古今を成す。
江山は勝迹を留め、
我輩また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、
天寒うして夢沢深し。
羊公碑尚ほあり。
読み罷めて涙襟を沾す。
往来して古今を成す。
江山は勝迹を留め、
我輩また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、
天寒うして夢沢深し。
羊公碑尚ほあり。
読み罷めて涙襟を沾す。
この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊●(「示+古」)と同じものに打たれてゐるらしかつた。
この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、
この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、
●(「山+見」)山は漢江に臨み、
水は緑に、沙は雪のごとし。
上に堕涙の碑のあり、
青苔して久しく磨滅せり。
水は緑に、沙は雪のごとし。
上に堕涙の碑のあり、
青苔して久しく磨滅せり。
とか、また
君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
亀頭剥落して莓苔を生ず。
涙またこれがために堕つ能はず、
心またこれがために哀しむ能はず。
亀頭剥落して莓苔を生ず。
涙またこれがために堕つ能はず、
心またこれがために哀しむ能はず。
とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に
空しく思ふ羊叔子、
涙を堕す●(「山+見」)山のいただき。
涙を堕す●(「山+見」)山のいただき。
と感慨を詠じたりしてゐる。
なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之●(「二点しんにょう+隣のつくり」)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊●(「示+古」)のために●(「山+見」)山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
羊●(「示+古」は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。 (『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月)
なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之●(「二点しんにょう+隣のつくり」)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊●(「示+古」)のために●(「山+見」)山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
羊●(「示+古」は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。 (『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月)
『会津八一全集』 中央公論社
2019-06-12 19:26
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