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渾斎随筆 №32 [文芸美術の森]

新博物館を観て

                歌人  会津八一

 上野の博物館が最近立派に復興したのは何よりの事だ。
 明治時代の日本には、小さな私設を除けば、博物館と云へば、東京、京都、奈良の僅か三個所だけであった。其中で東京は、建物としての規模も大きく、従って内容も一等豊富であったが、設立が古いだけに其の目的も亦た古く、美術のためよりほ寧ろ教育の為めで、其列品も、歴史や博物の標本の中に、いくらかの美術品や工芸品が入って居たとも云ふべき程度であった。そしてその乏しい美術工芸品の中には、欧米諸国の製作品も含まれて居た位だから、之を以て日本美術の為めの博物館とは尚ほ更ら云ひ悪くかった。啓蒙的な教育博覧会とでも云ふべきであった。恐らく當時社会の要求が其程度であったのであらう。欧米で云ふ所のMuseumは芸術の女神群Musesから来て居る。其の中には歴史も一つの芸術として仲間入りをして居たのではあるが、museumをいきなり博物館と翻訳して動植物學の標本を並べ立てた所に其當時の気分が味はれる。
 其頃上野公園を這入ると、間もなく正面に黒い門が見える。それは昔の寛永寺の門を山舌から引き上げたもので、近づけば戊辰の際に、此の岡に立て籠った彰義隊に向かって攻め寄せた官軍の大きな鉄砲の弾の痕がありありと扉や柱に見られた。その説明文を読みながら門を入る。これが博物館の正門なのである。随分いかつい、高い、黒い門であった。この門を入って初めてサラセン式の赤い煉瓦の博物館が目に入る。そして此の博物館に入って先づ見る物は、虎やゴリラや大蛇の剥製、岩石石油の標本、そして廊下の天井に長々と釣られて居た鯨の骨を私は忘れることが出来ない。美術国と謡はれる日本へ遥々やって来て、この光景に呆れた外客の不平は屡々聞かされたものである。
 其後、明治の終りになって當時まだ皇太子であられた大正天皇の御成婚記念として本館の側に今の表慶館が出来、小さいながら専ら美術の為めに用ゐられることになった。之れこそ誠に意味の深い出発であったが、間もなく大正十二年の大地震で今度は本館の方が全くつぶれてしまった。そこで今上天皇の三年、御即位式の記念として七百幾十萬圓の豫算で、其復興が企てられ、十一個年の歳月を費して、去る十一月に落成したのである。それは近代日本式とも言ふべき、石造で、簡素にして而かも雄大、耐震耐火は勿論、照明、暖房、換気に至るまで周到な用意があって、優に世界有数の大博物館の形態を具へて居る。それにも増して大進歩といふべきは其陳列の内容が主として美術を目ざして居ることである。即ち大小二十五の陳列室のうち、絵画の為めに七室、彫刻の為めに四室、金工、漆工のために各二室、染織、陶磁、書蹟のために各一室が興へられ、外に宗教や考古の室もあるが、その列品はやはり美術を離れるものでないから、今度こそ初めて美術品ばかりの、博物館が東京に出来たのである。飛鳥、寧楽、平安の佛像佛畫、鎌倉の絵巻物、室町の墨絵、桃山の蒔槍、徳川の浮世絵など、すべて其種類の傑作が並んで居る。其選擇と配列とには、専門的な精妙な眼識が働いて居る。九州とか四国とか、或は河内や大和の山間で、中央人士からは割合に交通の不便な地方まで蒐集の手が延びて居る。なみなみならぬ親切も伺はれる。かくして初めて日本美術の為めの大博物館を吾々は得た。高い文化的地位を持つ国民としての體画もやうやくこれで全うされたとも云へやう。新に築き直された大庭園、その此所彼所に校倉や茶室や貴族の邸宅から移された離座敷が庭木の間に隠見するのも捨て難い餘興であらう。
 上野の博物館の復興は、量に於ても質に於ても、実際復興以上のものであることは私は確認して欣快に堪へない。しかし又一方から、私は相當に強く一つの遺憾を感じて居る。それは此の博物館の内容が—少くも現在のまゝでは—餘りに単一に日本美術にのみ局限されて居る點である。なるほど比の館に来て見れば、ある程度までは我が日本の美術の精華を見ることは出来る。古風な好事の老人連とぽつぽつ歩きながら應拳や探幽の掛物や、御茶器や浮世給の品評も結構ではある。しかし今は日本人自身が日本的な総ての物を見直さなければならぬ時代になって居る。たまたま支那事變といふものが起って居るが、此の事變の前から既に久しくさうした機運になって居た。日本文化の史的地位、その重要なる性能、かうした事を根低から吾々が理解する為めには先づ支那を見直さなければならない。吾々のためには二千年の間良き指導者でもあった所の支那を正しく見直すべき必要は事變によって初めて忽然と生じたのでは無い。正しく支那を観ることは異本自らを観るのと同じ事だとも云える。それ位の間柄なればこそかへって、此の事變にも立ち到ったのであらう。のみならず、支那の文化、ことに其美術は、日本との史的関係だけに其価値が在るのでは無い。世界の壮観として又奇蹟として、欧米の大博物館が常に其蒐集に憂身をやつして居るのでもわかる。ところが現在の支那国民は、近い将来でも、彼等自身の手で組織的な大美術館を建設して世界の眼前に提供し得べき見込は薄い。又日本は此の事変を契機として、東亜の平和と文化的建設に就いて非常な抱負を揚言して居るほどであるから、此の新興の博物館の中に、彼等の為めに教室を割くだけの用意が必要であった。そして此等の支那美術室に於て、全く新らしい、そして真剣な態度を以て、鑑賞なり研究なりが遂げられなければならぬ。然るに此の博物館には一室だもさういふものは無い。近年新らしい支那の学者の手で編述された自国の美術史、ことに絵画史の類は十種を下らない。それを繙く毎に感じるのは、挿絵や図版に出て居る作品は殆どいつも日本の寺院や個人の所蔵ばかりである。支那美術に封して日本の博物館が持つ所の重大な責務を此所にも看取しなければならない。然るに今我々の新博物館には、宋元明清に亙って僅かに八幅の掛物と一冊の画帖が出て居るだけで、此の外には二三體の泥像ばかりで、一體の彫刻も無い。亜細亜を背負って立つ新日本の美術の大殿堂として、私は寂寞に堪へない。これが私の遺憾である。
 ある一室には明酷々たる白刃を裸のまゝ室一ぱいに陳べてある。なるほど武器であるところの日本刀は同時に叉美術とも云ひ得るであらう。しかし別に九段には遊就館もある。又大名華族の什物らしい衣裳や髪道具が一室も二重も填めて居た。此等も美術には近い物ではあるが、それ以重大な、そしてより以上美術的な陳列の前には、潔く席を譲るべきであらう。のみならず一般に何の室にも在り餘る空間が感ぜられる。折角の復興を更に更に意義深からしめる為あに、何とか工夫を願ひ得べきことを期待して居る。
                  『短歌研究』第八巻篇第二號昭和十四年二月


『会津八一全集』 中央公論者

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