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じゃがいもころんだⅡ №6 [文芸美術の森]

花散らしの雨

              エッセイスト  中村一枝
 
 三月三十日宵の口から雨が降り出した。花散らしの雨になるか、それとも花の息継ぎの雨になるか、明日にならないと分からない。毎年こうやって、桜の季節になると、天候の変化を刻一刻天気予報などで伝えている。平和という点ではまったくありがたい話だが、微に入り細に入りこ細かすぎるのは日本人の習性なのだろうか。翻って、毎日、新聞やテレビで報じられている事件の多い事、その上、大きい地震や地殻変動がいつ起きるか分からないという。それなのに巷では花見客の恒例の行事は相変わらず開かれている。日本人ってせっかちなのか、のんきなのか、どっちなんだろうと思ってしまう。
 何度か書いたことだが、年をとるということがどんな事なのか、つい一年くらい前までは考えたことがなかった。最近、脚が悪くなって見回すと、道を歩いている老人にスタスタは少ないということに気がついた。杖というものを始めて持ってみた。どう見ても、昔ステッキをついて歩いていた老人のかっこよさとは程遠い。身長があって、背筋がびーんとしていて、顔も真っ直ぐ前を向いていて、目がキラキラしている、そういう人がステッキを抱えてこそ見栄えがしたのだ。今の歩行具の一助としてのステッキとはまるで違う。私は自分がステッキにすがりついて歩いているということに気がついて愕然とした。年を取ると何にでもすがりつきたくなる、その姿勢が老人なのだ。
 ショーケンこと萩原健一氏が亡くなっていたと報じられた。私より遥かに若いけれど、どこか同時代的な感覚もあり童顔の持つ男の色気も爽やかで今だに忘れがたい。萩原健一が活躍していた時代なんてついこのあいだのことのように思っていた。その彼が68歳で亡くなったということはすでに彼の全盛時代から4、50年は経っているということなのだ。人間というのは現実を直視しているようでいて実はそれを何処かすり抜けることでごまかそうという魂胆があるようだ。あら年より若いじゃないと言われることでほっとしながらも逆にそのことが気になって年より若い格好に手を出してとみたりする。でも、いまの私の年まで来ると、誤魔化しはしたくないし、する必要もないということに気がつくのだ。
 四月一日から年号が変わるそうだ。年号なんかあまり興味はないけれど、ひとつ大きい声を出したいことがある。平成という時代は戦争とはまったたく無縁だったということである。これがどんなに素晴らしいことか、貴重なことか。 敵の攻撃もない、勿論空襲などという物騒なものもない。そういう時代が現実に31年間あった。その素晴らしさを平成が終わるにあたってどんなにすごいことか改めて噛み締めたい。それも政府の方針とか、総理の思惑とかとは全く無縁。あくまでも日本国民の意思ではないかとつくづく思うだけに、このことは平成の終わりに特に声を大にして言いたいと思った。新しい元号がふたたび平和の砦になることを願いつつ。

 

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