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渾斎随筆 №30 [文芸美術の森]

二人侍

                  歌人  会津八一

 今から十四五年前のこと、私がまだ小石川豊川町の女子大學の坂下に住んで居る頃、或る暑い夏の日に、例の如く裸で療転んで居た私は、読みさしの新聞を顔に載せたまゝ、何時しか寝込んで了(しま)つた。玄関の人聾が私の夢を破った。「御免ッ!」「御免ッ!」と頻りに呼ぶ。折から飯焚の婆さんが出かけたものか、聾は室しく頻りに呼ぶ。よく聞けば二人である。一軆其頃、私の門などを叩いて来る位の人にたいした人が有る譯は無いと、私は常々から決め付けて居たから、いつもの通り私は起きもせずに、顔に載って居る新聞紙の下から「誰だ?」と一撃怒鳴って見た。それに應じて「やア居るね。僕だよ。」と一方が云ふ。「吾々だよ」と他の聾が云ふ。「其の吾々は誰と誰だ。名を云ヘ」と私は相變らず寝たままで怒鳴った。「吾々だよ……二人だよ……二人侍(ににんざむらい)だよ」と最初の聾が答へて、其の「二人侍」なる者は格子の外で賑やかに笑って居る。「さてさて五月蝿(うるさ)い奴等だ。名を云へと云ふのに……」と私は渋々起きて、片手に其の新聞紙を提げたまゝ、裸で玄関へ出で見れば、這は如何。「僕」は即ち坪内逍遙先生。それに市島春城先生を加へて、いづれも夏帽子夏羽織の厳然たる二人侍であった。私は恐縮した。二人は大に笑ひながら這入って来られた。
 これは私が、其頃聊か思ふところ有って、中學校の教頭を罷め、急に生活が不自由になったのを憐んで、誘ひ合せて見舞ひに来られ、そして斯う云ふ目に遇ほれたのであった。あまり個人の家を訪ねることをされない逍遙先生ではあったが、此の後も私の所へは幾度も駕を枉(ま)げられ、其間にいろいろの事もあった。が此の日のことは先生も餘程可笑しく思はれたものと見えて、よく話しては笑はれたと聞いて居る。私も折々思ひ出して一人で笑ふことがある。
                        (昭和十年三月八日草)


『会津八一全集』 中央公論社

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