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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №1 [文芸美術の森]

第一章 一枚の絵の発見

                   早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 すべては《すいれんの池》から始まった

 高島野十郎の名が世に知られ、その絵が多くの愛好者を得るに至った経緯にはひとつの因縁があった。それは一編のドラマのようでもある。
 野十郎が亡くなってから五年目の昭和五十五年(一九八〇)、福岡県文化会館が「近代洋画と福岡県」展を開催し、県出身の画家六十四人の作品九十三点を展示した。坂本繁二郎や青木繁、古賀春江、児島善三郎といった著名な画家の絵はひとりで三、四点が出品されている。
 当時の学芸員で古川智次(現福岡大学教授)が万一の疎漏なきよう最後の捜査をしぼりこむなかで、一枚の絵が綱にかかった。所有者は久留米にある法人経営の会社で、社長がその絵を描いた画家の親戚筋の人だという。画家の名は高島野十郎、作品名は《すいれんの池》(口絵4.省略)。しばらくの間、この絵は多数のなかの一枚としてあつかわれていた。
 しかし学芸員の後藤耕二が事前調査や借用の挨拶で会社を訪れ、絵を会場に搬入して展覧会が始まる頃には、かれは九十三点の絵のなかでも、とくに《すいれんの池》から目を離すことができなくなっていた。他のどの写実派画家ともちがう「主観性を排除した清明さ」に強烈なインパクトをうけたのである。
 さらに五年後の昭和六十年(一九八五)秋、福岡県文化会館は新装なって福岡県立美術館と名をかえた。学芸主任になった後藤氏が企画会議で高島野十郎展の開催を提案した。五年前の「近代洋画と福岡県」展にたずさわった他のスタッフが職場をかわっていたので、《すいれんの池》を知るのはかれ一人だった。企画が会議をとおり、後藤氏はその年入ってきたばかりの学芸員、西本匡伸の資質を見込んで高島野十郎展の担当を依頼した。
 西本氏もまた野十郎の絵がもつ静謐なたたずまいにつよく惹かれていた。当時高島野十郎の資料はまだわずかだった。かれは宮崎県に暮らす高嶋家の次女スエノの子息からの話をもとに精力的に野十郎の探査にとりかかる。

 西本氏は久留米の実家を訪れ、またいちだんと視野がひろがった。野十郎は明治二十三年(一八九〇)の生まれで、本名は高嶋禰壽(やじゅ)、裕福な醸造家の五男二女の四男に生まれた。父善蔵は明治維新の戦にも出た武士だったが、維新後は家業の繁栄につくし、郡会議員もつとめる地方の名士だった。
 野十郎の母カツの祖父種周(たねちか)が伊能忠敬に学んだ測量家で絵図を得意とし、カツの父親である種教(たねのり)は西洋軍学で藩に仕え、国学や和歌に秀で、南画の名手だった。カツの弟つまり野十郎の叔父大倉正愛(まさよし)は福岡県初の東京美術学校洋画科卒業生で、この家系には画才のある者が少なからずいた。しかし前途を約束されていた叔父は三十五歳の若さで亡くなった。
 祖父の大倉種教は晩年ひんばんに娘カツの嫁ぎ先に滞在し、亡くなった息子の話もたえず出たが、絵の名手だった祖父は孫の弥寿(以下新字体)に才能の芽生えを見て、あれこれと手ほどきしただろう。
 
 弥寿の長兄、宇朗は詩人だった。家業は弟にゆずり、禅寺で過ごしたあと、上京して浪漫派の岩野泡鴫や蒲原有明らと交流した。かれはここで明善中学校の後輩、東京美術学校生の青木繁と知り合い、無二の親友となった。しかし送金を絶たれて東京に長くいられず、日本女子大出の新妻をつれて久留米に戻り、実家の広大な別邸に住まって、詩作に興じ参禅に凝った。帰郷した青木繁が訪れてくると、母屋から酒を運ばせ、一緒に痛飲した。
 野十郎は長兄になにかと示唆をうけ、また宇朗が天才と呼んだ青木繁の存在をつよく意識したはずだ。宇朗の家で世話になり大酒を飲んだ分、青木はデッサンや油絵をお礼がわりに残していたので、中学生の野十郎はこれからも洋画のなんであるかを学んだにちがいない。
 憑依(ひょうい)とか憑霊という、霊が人に乗り移ることをさす言葉がある。長兄の宇朗はつよい霊性をもつ人で、明治四十年(一九〇七)、三十歳の頃の体験が本人によって書き残されている。郷里の竹薮で笹の葉を刈っている最中に、自分の意志とはべつに鎌をもつ手が自由自在に動きはじめ、身体の感覚がなくなり、心ここにあらずの「神がかり」の状態におちいった。自在に動く手をむりに止めて、一服すると、遠く汽車の走る音が聞こえ、竹薮の隙間から覗く空もいつものように青い。気を鎮めて作業にとりかかると、ふたたび神がかりの状態におちいり、さらに三度目もそうなったので作業を諦めて帰宅した。その後も別の竹薮で同じ体験を何度もしている。
 明治四十三年(一九一〇)、父善蔵の死後、三十一、二歳だった宇朗は地元の梅林寺で本格的な参禅に没頭するうち、いちど見た阿蘇山のイメージがあらわれ、我が身そのまま噴火し爆裂音となり、しばし混沌の極みにおちいるが、周りの僧も参禅者も手のほどこしようがない。しかし次第に暗黒の恐怖も去り、「五臓六腑、髪毛爪歯、内外あまさず(省略)身も心も脱け更った」。これを「入定(にゅうじょう)」の境地とみずから記しているが、「事後、どうということなしにただ普通に膝を曲げて坐ると、すうっと清浄空に」なった。のちに宇朗は住職となる。宇朗が記している「入定」とは悟りの境地に入ることである。
 私の手もとには宇朗の私家版、宇朗直筆の最後の詩集『虎斑集(こはんしゅう)』がある。そこには座禅に徹した人物の心境が、鉄の鋲でも打ちこむように、とつとつと飾り気のない語で示されている。詩集の最後には病中の「苦闘の宇朗」をスケッチした青木繁の絵写真が掲載されている。私宛ての次男力郎の手紙によると、父の宇朗は屈指の経典『碧巌録(へきがんろく)』に対してすら「禅は端的なもので、このようなくねくりは大乗菩薩の禅ではない」と批判したというから、かなりの心境と自負に達していたのだろう。しかも力郎までが一時、禅寺で雲水の修行をつんでいる。この家系に属するある種の人びとにはつよい無常観とそれに打ちかつための超越をめざす激しい血が流れているのかもしれない。


『過激な隠遁 高島野十郎評伝』求龍堂

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