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正岡常規と夏目金之助 №11

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 

                   子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

             第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ


豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづき

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随筆、「吾幼時の美感」の導入部で、

乳呑子のともし火を見て無邪気なる笑顔をつくりたる」

のも、幼な児が赤く華やかのものを「アップアップ=キレイキレイ!」と美しがる一例として挙げた子規子でした。

その筆の流れは、満2歳すぎに体験した正岡家の全焼の記憶にも及び、自分はその時、

バイ へ (提灯のこと)バイ へ と躍り上りて喜びたり、

と母は語りたまいき。・・・

いう風にこの文章を続けていました

火消し隊の携えていた提灯を「アップ」と見てのことか、燃え上がる光景全体を美しく感じて「提灯、提灯」と喜んだのか、その点は混然として解りません。しかしそこから、微苦笑とともに思い出話をして聞かせる八重さんの母親像が見えてくること、またその母親としての表情や話をして聞かせたタイミングからか、それを受け止めたノボ君の心に、自家の全焼を陰残な出来事としてではなく、美しくも可笑しみのある自分の原体験として焼き付けられたことも伺える…そんなことを、前回述べました。

筆者(八荒)は若い時、母子関係の安定が、本来脆弱さと不安の中にいる乳幼児に安心感を与え続け、その安心感がこころの中でいわば「満タン」にまで充分に蓄えられた時、その子に自立への歩みが始まるという幼児発達論に接したことがあります。深く共感して幼児教育についての番組を作ったことでした。

 ただ、それを基本に置きつつ、幼児の人間発達を保障する機微をもう少し緩やかに(=血のつながりのある母子関係に限定せず)「女性的なるもの、母性的なるもの」というくらいに広げて柔軟に見るべきであることも、子規=ノボさんの成長過程を見ていると考えさせられるのです。

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「よつぽどへぼで へ 弱味噌」という、兄のために「石を投げたりして兄の敵打をする」(母堂の談話 碧梧桐 記)ような妹に恵まれたこともその一つでしょうが、実はもうひとつ「女性的なるもの、母性的なるもの」の別の要素に、幼い時の子規=ノボさんは恵まれていたのです。

 曾祖母の小島久(ひさ)いう女性です。

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なぜか正岡家の戸籍には入っていない事情があったようですが、子規の曽祖父常武の後妻という人で、父隼太とともに正岡家火事の原因となったという伝えもある人です。子規とは血縁のない老女でしたが、この人が誕生時から子規をこの上もなく可愛がったようなのです。八重さんがこんなことを語り残しています。

                                 母堂の談話  碧栢桐記

 ○私の祖母に当たる人は名うてなやかましやでございましたが、

     (幼名)には目も鼻もないやうに優しうしまして、それはそれは

                えらい自慢をしよりました。

    まアあんな自慢がよう言へる事よ思ふやうな事を言ひまして……

             升も其曾祖母にはよくなついて居りました

 

母親として落ちついて冷静な視線を我が子にそそいでいる八重さんとはまた違った、ひ孫可愛さに目を細めて抱き歩いて、近所に自慢してまわるお婆さんの姿が目に浮かびます。八重さんの乳が足りない時、ノボ=處之介君を抱いてよく貰い乳に行ったりもした人だったそうです。乳児期・幼児期・上京するまでの少年期を通して、子規は、「溺愛」とでも言うべき、こんな「女性性」にくるまれていたのです。実は子規は「お婆さん子」でもあったようです。

 明治21年、子規21歳の時に81歳で亡くなったこの人のことを、子規はいくつか書き残しています。 

                                明治21年執筆「七草集」(尾花の巻)

      我幼少の時より養育せられし老媼の 

              ミまかりたりときゝて涙にむせびける

 

添竹の折れて地にふす瓜の花

 

と、東京の下宿先で訃報を聞いてすぐ、追悼の句を詠んでいます。21歳の青年の詞書「涙にむせびける」に、ひささんへの思慕の深さが現れています。

 

次は明治28年、あの無謀な日清戦争従軍のあとなんとか生き延びて、漱石の下宿「愚陀仏庵」に転がり込んでいた時のことです。小康をえた10月6日、漱石を誘って道後温泉方面に吟行、ついでに足を延ばして近くのひささんの墓所がある筈の鶯谷という所に足を運んでいます。

明治28年句集「寒山落木」

 深きちなみある老女の墓でんと 鷺谷をめぐりしに

    数年の星霜は 知らぬ石塔のみ みちみちて 

           それぞれとも尋ねかねて空しく帰りぬ

        花 芒 墓 い づ れ と も 見 定 め ず

 

踏み込んだ鷺谷の共同墓所は、草茫々で墓石だらけで、ひささんのお墓は分からなかったのです。

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  あの漱石が、どんな顔をして子規の「ひいお婆さん」のお墓参りに付き合ったのか…。いったんは滑稽に思いかけて、吹き出しそうになります。しかし、子規のようには「女性的なるもの、母性的なるもの」には恵まれなかった夏目金之助君の生い立ちを思い合わせると、痛ましいいことであることにも思い当たり、笑えなくなります。(夏目君が成育過程で抱え込んだ家庭的な屈折した事情には、この時正岡常規君は全く気付いていませんでした。)

  また、そのような「祖母愛」とでも言うべきものにより濃密に捉えられ、母親と隔離された三島由紀夫の生い立ちと生涯を考え合わすと、「日本男子の常識的で健やかな成長」と、祖母まで含めた「女性的なるもの、母性的なるもの」との関係方程式に、単純一律なことは言えない複雑な機微が働くことを思わざるを得ません。

  また別のことですが、「男の子をダメ男に育てたければ、お婆さんに預けてオケ」という俚諺を、筆者はある地方で聞いたことがあります。聞いた瞬間、吹き出しもしましたが、当たっているようにも思えました。確かに幼な児に注がれる祖母的な盲目的ともいえる愛情は、男の子の自立を妨げる甘やかしの極致のように作用することも、日本の子育ての中では、間々あったのでしょう。

  しかし、それが必ずマイナスに働くと云うものでも、もちろんなかったでしょう。後の子規・正岡常規のあゆみと生涯を見渡せば、この俚諺が言っていることが、「必ずそうなる」というような原理的なものではないことが大いに分かります()

  要は、「よつぽどへぼで へ 弱味噌」な幼い命も、生きることに伴う不安から抜け出し、安心して自立の方向に歩み出していけるような環境が保障されることが大切、という事なのでしょう。血のつながりとか女性だけに限られるとか、固定的に考えるものではないと思います。現代の保育教育の発達は、そこを踏まえ乗り超えて実践されているとも思います。

 

ただ、正岡常規・子規という人物に限って言えば、文学者となった夏目金之助や三島由紀夫と違って、その点で一番単純明快で健やかな幼年期の成長の条件に恵まれた人だったと言えます。


 11-3.jpg母・八重、妹・律、曾祖母・ひさ…彼は「女性的なるもの・母性的なるもの」に、何重にもくるまれて育っていった男の子だったのです。
 
そしてそのことが、子規の生涯を貫いた、逆境に向かうたびに前向きに乗り超えていく「向日性」のルーツの一つだったかもしれないと思っています。

 

結論めいたことを先走りました。次回から、また随筆「吾幼時の美感」に戻って、幼い時の子規の次の段階の成長ぶりを、細かく追うことにします。
    
一回春休みとします。

 

次回 4月16日、
    
豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづき
   
お付き合いください。

 
※序論1から前回(第10回)までのURLを下に併記します。下線部分をCTRL&クリックすれば、その回が出ます。お見落としの方、ご活用ください。

 正岡常規と夏目金之助 №1
      
子規・漱石~生き方の対照性と友情、そして継承
            
    序Ⅰ ― 生き方の対照性
 
  正岡常規と夏目金之助 №2
                
序Ⅱ ― 友情 …生き方の違いを超えて
 
  正岡常規と夏目金之助 №3
                
序 Ⅲ ― 継承 … 自己決定のタイムラグを超えて
 
  正岡常規と夏目金之助 №4
       
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが
               金之助と名付けられたこと・・・漱石の出自と生い立ち①
  
正岡常規と夏目金之助 №5
       
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
  
          ほととぎすを名乗ったこと  子規の出自と生い立ち①

 正岡常規と夏目金之助 №6 
                    ほととぎすを名乗ったこと 子規の出自と生い立ち①つづき 
  正岡常規と夏目金之助 №7
       ほととぎすを名乗ったこと  子規の出自と生い立ち① (つづき)の(つづき)
                                                    …太谷藤次郎との交友
   正岡常規と夏目金之助 №8
        明治の書生たちの交遊の心…ほととぎすを名乗ったこと・子規の             

               出自と生い立ち①  (つづき)の(つづき)の(つづき)
   正岡常規と夏目金之助 №9
        明治の書生たちの交遊の心 二 (子規・漱石・太谷・柳原極堂らの…) 
   正岡常規と夏目金之助 №10
        第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
                                   豌豆と空豆の花の記憶  幼少期の子規①

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                        よい春休みをお過ごしください


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