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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №3 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

             美術ジャーナリスト 斎藤陽一

         第3回:  俵屋宗達「風神雷神図屏風」 その2

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17世紀。二曲一双。各155×170cm。国宝。京都・建仁寺所蔵。)

≪扇面形式の構図≫

 今回は、俵屋宗達の「風神雷神図屛風」の構図に注目してみたいと思います。

 風神、雷神それぞれの動きと視線の方向にそって直線を引いて見ると、二つの線は、画面の下方で結ばれる。そこを「扇の要(かなめ)」と想定すれば、この絵の基本的な構図は「扇面形の構図」であることに思い到ります。

 宗達は“絵屋(えや)絵屋”「俵屋」の主(あるじ)主でした。“絵屋(えや)絵屋”とは、一種の絵画工房のようなもので、大きなものでは屏風や襖、掛幅などを制作しましたが、「俵屋」の主力商品は高級な「扇」でした。俵屋の扇は、京の裕福な階層にたいへん人気があったと言われます。
 だから、宗達も、日頃、工房の職人たちとともに、扇の絵付けに精を出していたにちがいありません。
 扇の形というのは、上方に広がり、下方にすぼむという制約の多い形です。そこに絵を描く時には、描く対象を絞り切って単純化した上で、思い切ったクローズアップや、大胆なトリミングを行なうことが必要とされます。
画面の制約は、これを逆手に取れば、かえって斬新な絵が生まれ得る。このようなことを日常的にやっている中で、宗達のデザイン感覚は磨かれていったに違いありません。
 「風神雷神図屏風」は、そのような感覚を大きな屏風絵に応用したものと見ることができるでしょう。
 

≪余白の美学≫

 もう少し、画面構成について見てみましょう。

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 「風神」を右端のやや上に、「雷神」を左端上に配した結果、中央部分に大きな三角形の空間が生まれています。そこには何も描かれていない。が、求心性のある「余白」です。
 何も描かれていない広い「余白」であるがゆえに、屏風をじっと眺めているうちに、私たちの意識は画面中央の奥へ奥へと誘い込まれる。そして、その先へどこまでも広がる無限の奥行きのようなものを感じてきます。何も描かないことが、そのような「表現効果」をもたらしているのです。

 日本美術に出会うまでの西洋の伝統的な絵画では、ルネサンス以来“画家の視点”を重視する「合理主義」を基本としていました。
ですから、画家が見た三次元の現実を、二次元のカンヴァスの上に、遠近法や明暗表現などの技法を駆使して、「疑似的現実」として再現することが重要視されてきました。それゆえ、極端な言い方をすれば、西洋の画家たちは、自分に見えるもので画面を埋め尽くすことに意を用い、背景に何も描かなかったり、余白をそのままにしたりしておくことは「欠陥部分」と思えるほど、耐えられないことだったと言えるでしょう。

 ちょっと余談になりますが、20世紀において「構造主義」をバネにして独自の「記号学」を構築したフランスの哲学者ロラン・バルトが日本に来たことがあります。その時、彼は、過剰なまでの論理的・構築的「記号」によって隙間なく体系化された西洋文化とはまったく異質な日本文化に揺さぶられ、「空白」とか「空虚」の意味を考察しました。
  ロラン・バルトの文章はとても難解で、理解するのが大変なのですが、内田樹氏によれば、どうやら彼は、「西洋では、“空(くう)”はそのままにして置くことが出来ず、埋め尽くさなければならない存在であり、“間(ま)”もまた、そのままでは欠陥部分であって何かでつなぎとめなければならないもの」― そのような精神が西洋文化を硬直化させているのではないか、と考えていたようです。
 これに対して、日本文化の諸現象の中に、西洋とは異質な「空」や「間」という「表徴」(signes:シーニュ)を見出し、バルトは自らが揺さぶられただけでなく、西洋文化を揺さぶるものだと感じとったようです。(参考:ロラン・バルト著『表徴の帝国』、『エクリチュールの零度』ほか)

 19世紀後半に至るまでの西洋絵画のアカデミックな規範のひとつは、「絵筆を使って画面を完璧に仕上げること」でした。この場合の「完璧」とは、「筆跡」が残らず、塗り残しも無い絵、という意味です。「空白」や「空虚」は、「欠如」だと考えるのです。
 塗り残しや塗りムラなどのある絵は「絵画」とは言えず、「絵画以前の習作に過ぎない」とか、「ぞんざいなデッサンに過ぎない」という扱いでした。
 一方、モネら印象派の画家たちは、素早く自在な筆致により、筆跡や塗りムラを意に介せず、眼前の“印象”を掬い取ることを重視しました。言ってみれば筆跡の集積によって画面を構築することを選択したのです。これはアカデミズム絵画とは真っ向から対立する画法です。
 だから、印象派の画家たちは、その同時代的表現と相まって、宗教画や神話画など歴史画を重視するアカデミ3-3.jpgズム絵画観の厚い壁に阻まれて、悪戦苦闘したのです。

 そして、ポスト印象派のセザンヌ(左図参照)あたりから、「色を塗っていない塗り残し部分もまた、彩られた部分と対等な絵画表現である」という、より自覚的な表現が行われるようになりました。

 ところが、日本絵画では、何も描かれていない空白もまた、絵画的な意味を持っています。はるか昔から、「余白」は、描かれたものとせめぎ合ったり、枠外に広がる空間を暗示させたりする絵画表現のひとつであり、描かれたものと対等な役割を演じつつ、余情を醸し出すもの、と当然のように認識されてきたのです。現代の私たち日本人もそう思っていますね。

 皆さんも、京都の寺院を参観したときなど、何面もある襖の片隅に、ほんの少し草花や小鳥が描かれているだけで、あとは大きな余白のまま、というような襖絵を見たことがあるのではないか、と思います。それでも、私たちは、余白を含めた全体を絵画空間と認識し、その絵画世界に引き込まれる。そのまま移ろいゆく季節の情感にひたることができます。

 これは「余白の美学」ともいうべきものであり、日本美術、ひいては日本文化に広く見られる特質ともなっている美意識です。たとえば、和歌や俳句などの短詩形文芸や茶道、華道、さらには、坪庭や庭園、能や歌舞伎と言った分野での美意識を考察すると、この「余白の美学」なるものを見出せるかと思います。皆さんで試みてください。
 
 次回は、「風神雷神図」の運動感と絵画空間の広がりについて考察してみたいと思います。

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yahantei

niceにと思って出来ないので、この欄など。これからお邪魔します。

by yahantei (2019-08-13 17:26) 

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