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正岡常規と夏目金之助 №8 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情・そして継承 
        子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
    明治の書生たちの交遊の心
       …ほととぎすを名乗ったこと・子規の出自と生い立ち①
                            (つづき)の(つづき)の(つづき)
           
 喀血した明治22年の晩秋、大磯の松林館という格の高い旅館で保養中だった大谷君に誘われて、「四日大尽」と自ら名付ける豪遊をしたのでした。
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 去るに当たって 
  「一村の 家まばらなる 紅葉哉」と詠み、「始めありまた終あり、人間の栄耀(派手・贅沢)もしつくして先づはこれまで めでたし めでたし」と、この紀行文を結び、大満足で下宿に引き返した第一高等中学校本科二年の書生正岡常規君でした。

8-1.jpg それにしてもこの大尽旅行の奇妙さは何なのでしょう・・・。一体何が、この四日間の豪遊を可能にしたのでしょう。富裕層の出であったらしい大谷君はともかく正岡君は、旧松山藩の奨学制度常磐会の給費七円で月を過ごす書生だった筈です。大谷君の奢りだったのでしょうか・・・れにしても謎は残ります。

 昭和11年、つまりこの「四日大尽」から47年後、そして子規没後35年という時を経て、この疑問を解いた人がいました。柳原極堂翁です。東京根岸の子規庵を守り続けた寒川鼠骨と並んで、子規への敬愛から松山で「ほととぎす」を発行し、一生子規を顕彰し続けた人でした。この人にして、永い間こう思っていました。

 8-3.jpg 「四日大尽」は・・・其の紀行の題名が大尽とあり、又、文の内容に見るに、旋館の待遇が大尽扱ひとなつてをり、彼等貧乏書生の分際として甚だけしからぬ事と思つて疑つてゐた
  (柳原極堂・子規の「下宿がへ」についてー講談社版子規全集⑩)
  そして昭和11年、この人は同年代の老人となっていた大谷是空氏に問うてみたのです
  近く是空氏に合ひ、其の懐旧談を聞き得て漸く                  其謎が解けたのであつた。
明治も大正も終り、昭和も11年になってやっとその疑問が解けたというのです。
     松林館に変りものの何とか云ふ番頭がゐて是空氏とは已に懇意にな         つてをり、是空氏を通じて子規のことも多少聞き知つてをり、正岡                    さんは面白い方のやうですねなどと噂もしてゐた、
      其処へ近日子規が遊びに来るといふ事になつたので是空と其の番頭                    とが種々話し合つた結果 大尽扱ひを以て子規を驚かし、且つ慰めよ                  うという策謀が成立し、仲居や男衆にも、改め其旨言ひふくめありと               は固より知るよしもなき子規は、車を館に乗りつけたのであつた。
ということだったのです。正岡常規君「めでたしめでたし」と大満足で終えたあの大尽遊びは、長逗留していた是空君と、親しくなっていた番頭さんとが打ち合わせて企画した大接遇パフォーマンスだったらしいのです。
 おそらく大磯駅には正岡様御迎えと銘打った人力車が待っていて、玄関に縦づけ」するや否や、「お客さまだよ」「おいでだよ」と叫んで男衆も女衆も、皆玄関の式台までお迎へするという筋書きだったのでしょう。それは満点の演技で実行されたのでしょう。
 演出とは「知るよしもなき子規」の方は、「余は優然として式台に上れば彼等皆もつたいなさうに余を拝みたり」と、大いにこの最高の接客サービスの流れに乗ります(乗せられます)。三つ指ついての深いお辞儀を、「拝」まれているとまで、ホントに思ったのでしょうか。文飾に過ぎないのでしょうか・・・貧乏書生正岡君を思い起こすと、つい大笑いしてしまうのを禁じ得ません。
 「女どもに護衛されて」入った部屋は床の間付きの八畳敷、まるで文人画のような庭に接し、絨毯の上に敷かれた座布団は、座れば「ゴブリとはまる」ほどの分厚さで「其心持」ちのよさに、「汽車のつかれは一時にほうり出されてあとかたもなし、・・・
 演出を大谷君と気脈を合わせた大番頭さんも相当の達者物で、大谷君から仕入れていた子規君の喜びそうな、
  「此頃のかたは詩(漢詩)なんどつくる人はないやうですが、何ですか、               やつぱり詩を作る人は文学士になるのですか」
など問うたりするおもてなし! よっぽど愉快っだったのでしょう、「覚えず大笑を催したり」と続けています。因みにこの「四日大尽」という紀行文では、正岡君はこの番頭さんを、すっかり旅館の主人と思い込んで接しています。これがのちに日本文学史に名を遺すあの大子規となる正岡君の貧乏書生時代の振る舞いだったと思うと、また吹き出してしまいます。

しかしです。
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 この二人の明治の青年の、この時の境遇を思い返すと、この可笑しい交遊の底に流れているもう一つの心情が浮かび上がってきます。
 正岡君は、半年前に血を吐いた青年。大谷君は、一年前の落第と今年も続く「脳痛」から退学を決意していた青年。深刻な人生問題に見舞われた二人の若者の間に底流していた、言葉にしなかたもの・・暗黙の心くばりが見えてくる気がするのです。

 先ず大谷君子規を松林館に誘った心意です。退学を心に決めて松林館に滞在していた彼が、孤独感もあって、「親友」と位置付けてくれていた友に「来ないかい」と呼びかけたくなったことが伺えます。落第した昨年夏の、「うかれだるま」と名乗っての激励。神経病をへて退学を考え始めた頃の自分への、喀血した友が子規と名乗って同病相可笑しがるような返信…それらをしみじみと思い返しての呼びかけとなったのでしょう。格の高い旅館への滞在経費のことは、云うも野暮、ごく自然に大谷君持ちだったと思われます。
8-5.jpg 子規の方は、この点では天衣無縫の少年のようなライフステージに居ました。よく寄席に通っていた19歳の頃、こんなことを自ら書いています。木戸賃がないので友人たちに、
 「多少を借り来りて 之をイラッシャイといふ門口に投ずること屡(しばしば)なれども 未だ曾て後に其人に返済したることなし」。(青春随筆・筆まか勢「寄席」明治十九年)
 後年成熟したオトナになっての回想にはこんな記述が見られます。
「以前ニハ人ノ金ハオレノ金トイフヤウナ財産平均主義二似夕考ヲ持チタリ 従ツテ金ヲ軽蔑シ居リシガ」(仰臥漫録・明治三十四年)
 もちろんこんな書生気分を脱却して、きちんとした生活人としての成熟をのちに遂げるのですが、そのころまでの正岡常規君は、正味そんな青年だったようなのです。

 これは日清戦争直後、あの松山52日間の同居の時の漱石子規回顧談を思い起こさせます。(八注・もうトシは、大分いっていたのですが・・・。)
   「其から大将は(子規は)昼になると蒲焼を取寄せてご承知の通りびちやびちゃと音をさせて食ふ。其れも相談もなく自分で勝手に命じて勝手に食ふ。」(序Ⅱ・ホトトギス・明治41年9月1日)
 その代金を、東京に帰る時「君払っておいてくれたまへ」、さらに「金を貸してくれ」と云って壱〇円持っていき、「恩借の金子は当地にて正に使い果たし候」と言ってきたという、あのエピソードです。
 貧乏士族の家に生まれ育ちながら、ここまで金銭に関して天衣無縫に育ったのは子規を育んだ母・八重の母性、その実家の大原家の庇護が関係していますが、もう一つ、明治のこの頃の書生たちの交遊関係の中に存在したある気風が関係したと思へてなりません。
 「書生」とはこの時代、富裕も貧生も入り混じってのエリート層でした。一目置き合い好感を持ち合う知的レベルの高い若者の間に、「人ノ金ハオレノ金トイフヤウナ財産平均主義」といった気分が、ある広がりを持ってあったのではないでしょうか。その中を自由自在に交友したのが正岡常規君・・・。そして多くの場合、彼は「貸してくれ」の側の書生だった気がします(笑)
 金之助と名付けられれて、(八注・連載第4回)金銭には独特の敏感さを持って育っていた夏目君は、あの愚陀仏庵での同居期間中に、チラとは子規のそのような振る舞いに感じるものは持っていたのでしょうが、そこから言を挙げてやり取りをするようなことは全くしなかったでしょう。子規のその振る舞いを受け入れ、苦笑とともにそれを懐かしみ振り返ったのは、子規の7回忌の頃のことでした。それも独特のユーモア=俳諧味に味付けしして・・・

 8-6.jpg一方大谷君の方は、松林館への正岡招きについての金銭の負担については、おくびにも出した気配がありません。書生仲間でこの上もない仲の、そして貧乏な友人を、金銭的には富裕な方であった彼が、退学し離別していく淋しさから「きてくれよ」と招くにあたってごく自然にそうなったのでしょう。大谷君にとっては、番頭さんとの呼吸のあったあの大接遇パフォーマンスの成功こそが、子規と名乗ってきた正岡への別れに当たっての返礼の、一番の目的だったのでしょう。
 そのようにして実現した、「四日大尽」と名付けたあの豪遊の間、正岡君の方は、ほんとうに全く宿賃を気にもかけず過ごしたのだったか? また、その経験を紀行文に綴り始めた段階でもその点について、無心のママだったのか‥という興味深い難問があります。
 わかりません。しかしひとつ、こんな推定は出来そうです。
 もし少しはそのこと(宿賃)が念頭に浮かんだとしても、そして松林館あげての大歓迎になにか身に過ぎたものを感じてはいたとしても、筆はそちらへは向かわなかったという事です。正岡常規はすでに子規を名乗り始めていました。その一番最初の名乗り相手の大谷君との四日間の交遊を、彼はあの手紙のように前向きで、かつ面白おかしく風流な味わいの文章にまとめたかったのです。俳諧目線(八注・明治期のユーモア感覚)で反芻することこそ、筆を走らせる心の本能的な動きだったのではないでしょうか。金銭のこと、互いに抱えていた深刻な病気、離別の感傷などを、その文章からさておいたのではないでしょうか。愉快な味付けをするために・・・
 大分後のことですが、ロンドン以来の深刻な鬱状態にあった夏目金之助君が、「吾輩は猫である(明治38年)「坊っちゃん」(明治39年)書くことができたのも、これと似た心の機微が働いた気がします。
 「俳諧味」、それは明治期のこの時期に物を書く時の、一つの心情の流れを反映した文体でした。子規はその創始期の一人だったのです。あの時期の書生たちの交遊を支えていたあの雰囲気が、喀血にめげない子規の陽性な気質をさらに強いものにし、あの俳諧味の文体を生みだした土壌だったと思われてなりません。
8-2.jpg もひとつ興味深いのは、70歳を超える老人になっていた大谷君柳原極堂君が、あの松林館滞在のことを昭和11年に話し合った時にも、宿代をだれが持ったかなどという話題が出た気配が少しもないことです。

 以上述べてきたエピソード(人間的情景)の登場人物、正岡・大谷・夏目・柳原・・・実は皆、慶応3年の生まれなのです。彼らがそろって満二十歳代であった明治20年代に、わが国ではこんな気風が、一部エリート層には濃厚に存在していたのでしよう。そのころ、後にあの大漱石となる夏目君さえもそんなエートス(=精神的気風)染まった若者の一員だったのではないでしょうか・・・

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 この時代のこの人たちの交遊を、彼らが残した書簡や自分のために書いた文章から見てゆくと、なんだか大漱石の言葉「明治の精神」といったものの一端に触れるような気がしてくるのですが、いかがでしょう。
「こころ」でその言葉に込めたのとは意味が違うヨ・・・と、漱石はチョット機嫌が悪いかもしれませんが・・・

子規・漱石の生い立ちからお話しさせていただくつもりで章を立てたのですが、発見に引きずられて脱線が続いてしまっています。次回もこの脱線を続けさせていただきます。 
 2月15日、正岡常規と夏目金之助 №9
 
  第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
          明治の書生たちの交遊の心㈡
                                        お付き合いください。

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