SSブログ

渾斎随筆 №23 [文芸美術の森]

実物尊重の学風

                            歌人  会津八一

 私は近頃少し小鳥を飼って居る。その中には二三種の鳩も居る。あしかけ二年許りの間に、幾胎も巣引きなどさせてみて、そして熟々思ふのであるが、昔から能く鳩に三枝の禮ありと云ふけれども、私の経験ではそんなことは認められない。それから、鳩に豆はつき物の様に云ほれて居るが、私の飼って居る鳩は皆々揃って豆を喰べない。人の話程常にならぬものはないと云ふが、書物に書いてある鳩の禮儀も、それを言ひ出した人が自分で鳩を飼って能く観察した結果でもなければ、うっかり信ぜられるものでない筈だ。
 然し、鳩程、兒供を可愛いがる鳥は無いといふことは言ひ得る。それも兒供が一人で餌を拾ふことの出来ぬ間のことで、既う、親から養ってやらねばならぬ時が過ぎると、可愛がる處か、掌をかへす様に親の迫害が始まる。仔鳩が覚束ない調子で鳴き出す様にでもなれば、親は直ぐ啄で嘴いて虐待し始ある。斯うした親子を同じ寵の中に入れて置くと、成程、親夫婦は上の枝にとまり、兒供たちは下枝にとまることもあるが、それは鳥を色々飼った経験のある者は能く知って居ることであるが、強い者程、上の枝にとまる。と云ふのは、野生時代に地面に近い枝程蛇などに襲はれる危険が多いから、上程安全な譯で、強い者が先づその安全な處を占領して、弱い省が仕方なしに割の悪い下枚へとまると云ふことになるのだ。鳩のも斯う考へてみると、禮儀でも何でもなくなる。

 然し禮儀といふことは、一派の学者達が考へる様に、天からでも天降った一つの抽象概念から出来てきたものでもあるまいから、その底に、生きた、強い意義を発見することが、私共には却って興味のあることだから、鳩の親子の間にも行はれて居る、かうした生存力の競争が、即ち鳩の禮儀だと見ても何も不都合はなからうと思ふ。

 学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法を観てゆくと云ふことは、何よりも大切なことだ。どれ程理論が立派に出き上がって居ても、何處かに、実物を根底にする眞実性が含まれて居なければ、即ちそれは空論だ、空学だ。取るに足るものでない。

 早稲田の学風は何うかすると、一種の実際主義に傾きたがる癖があって、政治学を読むよりは政治連動をしろ、文学概論を読むよりは小説を作れと言った風な處があるが、私の今の此の話はそのことではない。政治運動は連動で学間ではない。小説や和歌の創作は芸術であって学間ではない。私はそんなことを、学間として奨励しやうと言ふのではない。学問は飽迄も学間として、大学でそれを研究する其の研究方法、其の態度として、何處迄も事実、実物により多く注意を拂ひ度いと云ふのである。
 私は文科からのお頼みで、丁度今、東洋美術史を講義しかけて居るが、実物を尊重すると云ふことは、美術史を読むより、書家になって仕舞へと言って居るのではない。同じ美術史を研究するにしても、実際の美術品を離れては、美術史は存在しない。参考書の挿絵を見ただけで、実物を見ずに参考書の議論をうけ売りしたり、折衷したりしても相當に時間をつぶすことは出来やうが、其の中から、意義のある、価値のある何物も産れ出ないことは分明り切ったことだから、講義の最初に実地見学とか、写真拓本の方法とか云ふ様なことを随分力を入れて説明して置いたが、中には物足りない様な、アヤフヤな様な顔をして聞いてゐる学生もあった。学生が自分で巻尺を繰り出したり、三脚を据ゑたり、シャベルを担ったりして、実物の発掘、実物の測量、実物の正確な記録を、先づ以て、取り蒐めることが美術史研究上の第一の急務であって、其れ以上のことは其れ以後のことだ。斯うした態度の新しい研究方法の時代が世界に既に来て居る。我々の大学丈が獨りその外に超然として居る譯にはゆかない。従って、吾々の教場での研究にも、書物の挿絵ばかりでなく、どんな破片でも実物の参考品が欲しい。それから模造にもしろ実物を思はせる様な物が欲しい。そして多くの拓本や、写真や、看取図も欲しい。其れは凡そ如何なる学間の研究にも、吾々の囲書館の所有する幾十萬冊の書物と同等以上に必要な物であるから、経営の任に在る當局者は斯う云ふ方面の設備にも相當な御注意を願ひ度いものだ。吹聴がましく思ふ人があるかも知らぬが、私は此の頃自分の書いた書畫を、郷里で、展覧会を開いて数十幅売り拂って、千圓足らずの金を得て、実はそれを皆教授用の材料費に使って仕舞った。だがなかなかそんな事ではどこへも足るものではない。
 千圓と云へば、我々一個人として大金であるが、大学の経済から言へば何でもない譯だ。それから材料の蒐集は金だけで出来るものでもないから、一萬人も有る学生諸君のことだから、一人々々が相當に斯う云ふ點に理解を有たれたなら、諸君の労力と犠牲で長い間には一大コレクションが出来上ることも、困難ではなからう。そしてそれを陳列する為に、我々の新築の図書館と同じ位な大きさの博物館が我が学園の一隅に聳え立つ日の一日も速やかならんことを祈る。既に坪内先生の演劇博物館と云ふ誼もあるが、あらゆる学部あらゆ学科目が参考書以上に、斯うした実物の参考品を有つべき時が眼の前に迫って居る。


『会津八一全集』 中央公論社


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。