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立川陸軍飛行場と日本・アジア №170 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

     立松少佐、立川に帰還   昭和天皇、陸軍航空本部技術部へ行幸 

                                   近現代史研究家  楢崎茂彌
  
  立松少佐、満州事変での飛行第五連隊の役割詳細を語る 
 連載NO138に、満州事変に出動する部隊の責任者として立松少佐が、辻連隊長の送辞に対し次のような答辞を述べたことを紹介しました。“今回選抜されて満州に出征するに至った事を非常に光栄に感じます。まずわれわれは常に覚悟していた事であるが、今更この光栄に勇躍します。ただ今連隊長のお諭しを頂き、一層この考えを深くして軍人の本分を尽くす心組みです。”
 その立松芳次郎少佐が、4月23日立川駅に到着、木下連隊長に帰還の挨拶を行い、急いで立川市内の自宅に戻ります。迎えたのは、光子夫人、長男の重義君、長女照代さん、次男健次君、三男博光君です。博光君はお父さんが出征した時は生まれたばかり、少佐の顔を見て「どこのおじさん、どこのおじさん」とくり返し、少佐をホロリとさせたと、「東京日日新聞・府下版」(1933.4.25)は報じています。
 立松少佐は記者の取材に答えて次のように語っています。“11月15日に立川を出発して列車で広島の宇品に行く間、各地で歓迎を受け、慰問品は列車に積み込めないほどだった。20日には奉天に到着し、さっそく錦州攻撃で飛行機主任と情報主任をつとめた。翌年、錦州を平定すると2月にはハルビンに向かい、航空兵ではあるが、歩兵、鉄道隊、航空隊の三兵の指揮を執った。
  3月には満州の南部にある新義州に飛行場を作り、夏には松花江三姓(ハルビン東方の都市)で部隊長として府下部隊を指揮した。秋から今年(1933年)にかけてはホロンバイル、興安嶺と転戦し熱河省攻撃まで、正に「南翔北飛」した。“(要約)
170-1.jpg 飛行第五連隊の派遣部隊が満州事変で、満州全土でこんなに重要な役割を果たしていたことが、初めて具体的に分かりました。
  記事は、立松少佐のメッセージで締めくくられています“駐満州中、内地特に立川の人々から受けた慰問や激励文は嬉しかった。小学校の生徒等が真情を示した手紙等には全く国民の後援という事をはっきり悟った。この点は東京日日新聞を通じてよくお礼を伝えて欲しい。”新聞が国民を煽り戦争熱が高まったことや、戦争は国民の支持がなければ始められないことを感じさせるメッセージです。
  光子夫人は“博光が生まれて間もなかったのが、もう四歳になりました。子供を相手にしていますと、全く日の経つのが早いものです。主人は子供にはよく手紙をよこしましたが、私には月一度位で、それも「大丈夫で勤務している」というだけの事です。一年と四ヶ月でしたから別段長いとも思いませんでした。立川には出征する年の夏に赴任しましたのですが、いろいろお世話になりまして本当に有りがとう存じます。”
  夫人のお礼もつかの間、戻ったばかりの立松少佐は、5月には飛行第三連隊(滋賀県八日市)に赴任することになります。

 昭和天皇、立川に行幸
 昭和8年5月4日、昭和天皇が立川陸軍飛行場の西側にある陸軍航空本部技術部に行幸しました。これは、明治42年に陸軍が所沢に臨時軍用気球研究会を創設し軍事航空研究に着手して25年を迎えるので、陸軍航空勢力拡充のために陸軍大臣荒木貞夫が奏請したことを受けてのことです。
 「昭和天皇実録第六」(宮内庁編修・東京書籍2016年刊)は当日のことを次のように記述しています。 “四日 木曜日 多摩御陵並びに陸軍航空本部技術部に行幸のため。午前八時四十分御門出、原宿駅を御発車になる。東浅川駅にて下車され、多摩陵所御休所に御到着、十時三十五分大正天皇陵に御参拝になる。
 終わって東浅川駅を御発車になり、立川駅にて下車され、十一時三十五分陸軍航空本部技術部に御到着になる。“
 170-2.jpgこの日を迎える立川町は大変でした。全町民はチフスの予防注射を受け、行幸の道筋三丁以内の数百戸は検病調査まで受けさせられました。立川駅の地下道は化粧直し、駅前広場は舗装され、町内には紅白の幕が張られ、飛行場の西南側の道には三分の玉砂利がしかれ立ち入り禁止となります。5月1日には最終の予行演習が行われ、六十余機の陸軍機が空を舞い、一万人の観衆が押しかけたと「東京日日新聞・府下版」(1933.5.2)は報じています。
警備も厳重です。陸軍航空本部技術部300人、飛行第五連隊200人、警官180人、さらに憲兵80人が立川町内に配備されます。
 当日は、天皇到着の一時間前には、駅前から憲兵隊までには第五連隊、憲兵隊から五連隊正門までに立川の小学生2000人、五連隊内には北多摩郡町村長や将校家族などが堵列(横並びに整列)を完了します。更に航空神社境内には高齢者や廃兵(戦場で傷痍し後遺障害を抱える元兵士)、日本航空輸送会社前には青年団、在郷軍人会、府立二中生徒などが堵列しました。
 午前11時25分に立川駅に降り立った昭和天皇は、本庄繁侍従武官を従え自動車に乗り“中通り、第五連隊営庭から沿道に奉拝の民草に畏くも御答礼を賜り午前十一時三十五分航空本部技術部に著着あらせられた”。(「東京日日新聞・府下版」1933.5.5)何とも大仰な表現ですよね。
 立川の町民たちがこんな大変な思いをして奉拝(つつしんで拝む)したのに、「昭和天皇実録」には“立川駅にて下車され”としか触れられていません。これだけかよ…、と突っ込みを入れたくなりますね。“大元帥陛下と臣民”の時代を象徴するような記述です。

   天覧飛行
170-3.jpg 昭和天皇が飛行場に入ってからのことを「昭和天皇実録」は次のように記述しています。
“御昼餐後、図表等を御覧になり、ついで技術部長伊藤周次郎の説明により航空兵器を御覧になる。さらに御野立所にお出ましになり、明野陸軍航空飛行学校長徳川好敏の説明により所沢・下志津・明野各陸軍飛行学校、飛行第五連隊・航空本部技術部各部隊による各種飛行演習を約一時間にわたりご覧になる。午後三時発御、立川駅を御発車になり、四時二十分還幸される”
170-4.jpg 「立川陸軍航空本部技術部へ行幸 天覧作業 陪観雑見」(1933.5.4)によると、当日各種飛行演習に参加した飛行機は49機、うち立川陸軍飛行場の主である飛行第五連隊からの参加機は、“編隊集団離着陸並びに集団飛行の部”に八八式偵察機5機、“空中連絡の部”に乙一型(サムルソン)偵察機1機の計6機だけでした。しかも乙一型偵察機は通信筒つり取りに失敗してしまいます。天覧飛行の主役は、宙返りや1500m上空からの垂直降下、錐もみ、などの特殊飛行を繰り広げた所沢・下志津・明野各飛行学校から参加した戦闘機25機だったようです。
 飛行場の西端にある航空本部技術部からは“新式機の飛行の部”に2機が参加し、新重爆撃機1機が飛行する予定でした。この新重爆撃について、「陪観雑見」は“陸軍が極秘とせる超重爆撃機も配列しあり。巨大なる胴体内に陛下を御案内申しあぐ。但し参謀本部の注意に依り本機の飛行を中止せり”と記しています。ちょっと謎めいたこの重爆撃機の名称は何でしょう。
 「戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給」(防衛庁防衛研究所戦史室著 朝雲新聞社1975年刊)によると、昭和170-5.jpg3(1928)年に対米戦争作戦(フィピン攻略作戦)のために台湾からマニラを攻撃できる行動半径1,000km以上の超重爆撃機が計画されます。2月に試作が指示された九二式重爆撃機の試作要領は、“超重爆撃機設計並試作要領”と名付けられ、試作に関連して参謀本部が秘密保持を強く要求したので「特殊試験機」とよばれていました。昭和天皇が胴体内に入った飛行機は、この九二式銃爆撃機に間違いありません。この機の翼幅はB29より約1m長く、翼面積は二倍近くもある陸軍最初で唯一の四発機でした。この飛行機に関して、陸軍は極端な秘密主義をとったので研究訓練もままならず、テスト終了時には時代遅れとなり、昭和10(1935)年度までに6機が生産されただけでした。
 「雑見」は接待案内について“(ロ)昼弁当は親任官以下全部同様に「サンドイッチ」弁当なり”と記しています。親任官は首相、陸海軍大将など最上位の官職ですから、現人神の前の平等という事でしょうか。更に“(ホ)一般地方人は飛行場外の畑地に於いて便宜観覧す”とあります。軍隊は一般社会を“地方”と呼んでいたのです。

写真1番目  「自宅で寛いだ立松少佐」       東京日日新聞・府下版(1933.4.25)
写真2番目  「行幸道路の改修」           東京日日新聞・府下版(1933.4.22)
写真3番目  「飛行場の聖上陛下」          東京日日新聞・府下版(1933.5.5)
写真4番目  「甲式戦闘機実施課図 錐揉」      陪観雑見
写真5番目  「九二式重爆撃機」           パブリックドメインより


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