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徒然なるままに №42 [雑木林の四季]

「ふるさとは」・・・

                            エッセイスト      横山貞利

  ふるさとは遠くにありて思うもの
  そして 悲しくうたうもの・・・
             と詠ったのは室生犀星である。

 この一年ばかり前から床に就いて何となく「ふるさと」についてあれこれ想い出しているうちに眠りについていることが多くなった。わたしが「ふるさと」を離れたのは1955年頃だから60余年も前のことになる。
 わたしの「ふるさと」は信州・松本である。松本城(古い地名から深志城=フカシジョウともいう)の5階に登って北から北西にかけて目で追っていくと、城から1㎞くらい離れたあたりが低い丘陵になっていて、その丘陵の西はずれは途切れて崖になっているのに気がつくに違いない。崖になっているコブのような小高い山は「城山(じょうやま)」といって市民の憩いの場であり、小学校1年生の遠足の場所でもあった。「城山」から北に伸びる小高い稜線は西側が急な崖になっていて雑木や雑草が密集している。この崖の下をJR篠ノ井線と国道19号が通っていて、その先は安曇野から北アルプスに繋がった眺望を楽しむことができる。わが家から城山の上までは600mくらいで、そこから北に向かって尾根伝いに県の畜産研究場まで登って行くと散歩を楽しむ恰好のコースである。中学・高校時代にはよくこのコースの散歩に出かけて浩然の気を養ったように思う。
 
  ところで、松本城のほぼ真北の低い丘陵の頂きにゴシック調の建物がある。この瀟洒な建物がわたしの母校・長野県松本深志高等学校(旧制 長野県松本中等学校)である。この校舎は1932年(昭和7)~1935年(昭和10)までに完成した校舎で現在まで多くの生徒を送り出してきた学び舎である。それまでの校舎は松本城の二の丸にあったが、この新しい校舎で多くの学友が青春を謳歌したことだろう。2003年(平成15)にこの校舎は国の登録有形文化財に指定されたということである。わが家は学校から300mくらい下ったところにあったから、わたしが生まれてもの心ついとき、そこに松本中学(戦後の制度では松本深志高校)があったのである。将に、わたしの人生がスタートした場である。多分、毎日朝晩予鈴などを聞き“チュウガク”と向き合っていなかったら、わたしの人生は全く別の経過を辿っていたに違いないと思う。「孟母三遷」とい言葉があるが、わたしの場合は「そこに中学があったから」と言ってもいいだろう。何しろこの中学は明治9年に有志が集まって組合立中学として創立されたのである。しかし、そんなことは実際に入学した後で知ったことである。それにしても子どものころ独りで中学の校舎や校庭のポプラの木で遊んだ。体育館は2館あって東側の体育館は武道館らしく剣道(板張り)、柔道(畳敷き)に分かれていた。
 あの頃は楽しかった。しかし、1944年(昭和19)国民学校(いまの小学校)に入学すると全てが変わってしまった。戦後、深志高校の「とんぼ祭」(文化祭のこと、校章が蜻蛉―トンボだから)の時に講堂で演じられた演劇が楽しかった。「にんじん」(ルナールの小説を脚色)、「群盗」(シラー)などを観たのを覚えている。

 ふるさと松本を離れて60余年が過ぎた。すっかり大都会の“根無し草”になってしまった。偶に信州・松本に帰っても友人の家に泊めてもらうかホテルで過ごすことになる。菩提寺の前住職は4歳上の遊び仲間であり小学校から高校までの先輩である。もう一人4歳上で旧制松本高校の植物学教授の三男坊とも仲良しだった。この三男坊はワセダを出た建築士である。
 それにしても、子どもの頃から仲間を作って遊ぶということは殆どなく独りであちこち歩き廻っていた。そうすることで何時も発見があったように気がする。こういう姿勢がいつの間にかわたしの行動スタイルになったのだろう。だから社会人になってからも変わらなかったように思う。ただ、小中学校時代何かというとクラスの代表にされちゃうのには参った。いま考えると「何か変だ」と思うと「一寸待って・・・」と口にしてしまうのだから仕方ないのかもしれない。こんな我儘でもなんとか生きられたことを感謝しなければいけないのだろう。特にカミさんには・・・。

    伊東静雄  詠 唱 

   秋のほの明い一隅に私はすぎなく
   なった
   充溢であった日のやうに
   私の中に 私の憩ひに
   鮮(あたら)しい陰影になって
   朝顔は咲くことは出来なく
   なった


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