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雑記帳2018-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-7-1
行田が日本遺産のまちだと知っていましか?

古代ハスとさきたま古墳群の町として知られる行田市は足袋で栄えた町です。
さきたま古墳群は言わずと知れた日本遺跡、現在、世界遺産登録も視野にいれています。方や、足袋の町は、じつは日本遺産なのです。
このあまりなじみの無い「日本遺産」は平成27年、文化庁が制定した制度です。ストーリーをもったタイトルと歴史がその対象になっているのが特徴です。「和装文化の足元を支え続ける足袋の町行田」は平成29年に日本遺産に認定されました。地域活性化を狙う自治体の申請をうけて、現在全国に67件、オリンピックの2020年までに100件をめざしているということです。ちなみに私の郷里、愛媛県の日本遺産は広島県と共同で、瀬戸内海の雄、村上水軍です。

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市内循環バスに乗って、町歩きの最初の行き先は水城(すいじょう)公園です。
中国を真似て作られた池を持つ水城公園は、もとは忍城(おしじょう)の外堀でした。
広い園内には講道館三船十段の顕彰碑や田山花袋の小説「田舎教師」の文学碑もみられます。湖畔に大正11年築の忍信用金庫が移築されて公開の準備中でした。公園はテレビドラマ「陸王」の撮影現場にもなりました。

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池は中国の庭園をモデルにしたという。
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サギも仲良く池辺を散歩
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「田舎教師」の碑(主人公のモデル小林秀三が行田に住んでいたことにちなんだ)
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池畔に移築された大正11年築の忍信用金庫

行田の足袋は江戸時代中ごろから盛んになり、明治になると西南戦争や日清日露戦争時に軍の足袋の供給を一手にひきうけて栄えました。最盛期の昭和13年には年間約8500万足を生産したといいます。まさに日本一の足袋の町。足袋の生産を担ったのは大企業ではなく、多くの町工場でした。

その足袋の原料や製品を保管していたのが足袋蔵です。蔵は木造や石造り(場所柄大谷石がもちいられた)、モルタルやコンクリート蔵、れんが造りなど多種多様、デザインもさまざま、ひとつひとつに個性があります。現在、行田市内に80棟あるという蔵を巡る町歩きに、市は力をいれています。昭和30年代に、ナイロンストッキングの普及で足袋の需要が急速に減少して、蔵の建設も途絶えました。中には蕎麦屋として再活用されている蔵もあります。

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行田で唯一の鉄筋コンクリート煉瓦造りの大澤蔵
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こちらは木造の足袋蔵
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足元にも案内板

昭和の初め、足袋の生産で一代で財をなした新井八郎氏が贅を尽くして建てた邸宅は、足袋御殿と呼ばれました。足袋御殿は復元されていま「彩々亭」という料亭になっています。個人ではなかなか予約がとれないという彩々亭でお昼をいただきました。

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和牛ステーキがメインのランチ

食後に館内を案内してもらいましたが、趣のある廊下や豪華なシャンデリアなど、大正ロマンあふれる和洋折衷づくり。贅をこらした床の間の柱の材や面取りをした障子の桟などにも目を奪われました。庭もみごなものでした。国登録の有形文化財です。

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ゲストルーム
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廊下の天井
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明かりとりの障子の桟も手がこんでいる。モチーフは川漁に使われた投網。
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ガラス越しに見る庭

商工センターのあるメインストリートには、『知の木々舎』でおなじみの、赤川ボンズさん作の行田の童たちに出会うことができます。 童たちは町にちなんだポーズで39体。全体に昭和っぽい行田のまちに、これもレトロなイメージの童たちは良く似会い、行田の町づくりに一役かっています。 

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古代蓮の葉を持った行田の童

大正の建物、武蔵野銀行行田支店は、数少ない戦前の銀行建築として、また足袋の行田に深く関係がある建物として、貴重な近代化遺産です。行幸で行田を訪れた昭和天皇に食事を出したという応接室を特別に見せてもらいました。

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武蔵野銀行行田支店
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昭和天皇が滞在した応接室

市内でもっとも古い足袋工場、イサミ足袋工場を見学しました。大正6年建築の木造洋風工場は、独特ののこぎり屋根を初め、随所に戦前の大規模足袋工場の姿をとどめています。

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工場ののこぎり屋根
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イサミ足袋の商標(江戸時代の歌舞伎俳優尾上松緑がモデルという)

13工程あるという作業は分業です。近代工業の分業の仕組みは足袋工場がはじまりだそうです。働き手は主に女性ですが、爪先を木槌で叩いてしあげるのは力の要る男性の仕事です。分厚いつま先を縫う難しい工程には、創業時のドイツ製ミシンがメンテナンスをしながら今も使われています。行田ではミシン屋さんが多いのです。

今、日本では足袋の生産はこの行田と徳島県の鳴門の二か所のみになりました。

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ベテランの工員さんが使いこなす創業時からのドイツ製ミシン 

町を歩けばそこここに、高札場跡や枡形門の跡を示す石碑が見つかります。気が付けば、行田は忍城の城下町なのでした。

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水に浮く城として知られる忍城は、昨年、映画「のぼうの城」の舞台になりました。
室町時代築城の城は、豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らの水攻めにも耐えたことで有名になりました。北条に加勢した城主は小田原城にこもっていたため、城を守った正木丹波守は地元ではお殿さまより人気があるようです。市内の佐間天神社や高源寺に丹波守をしのぶ跡が残されています。

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佐間天神社
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高源寺にある正木丹波守の墓

江戸時代には忍城は川越、岩槻と並んで江戸を守る三城のひとつとして重要な拠点となり、行田は老中阿部家の領地となりました。小姓時代から家光とともに育った阿部忠秋は、明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守閣を再建不要と決断したやり手です。徳川幕府で最も長く老中を務めました。その後、領地換えにより、桑名の松平家が領主になり、明治になるまで松平家がおさめました。幕末に、国防の役目を担って重ねた借金を、維新のどさくさに城の一部を売って支払ったというのですから、流石は松平というべきか、律義なお殿さまだったようです。

忍城は美しい城ですが、天守閣はなく、阿部家三代目正武の時代に完成した改築の際、外堀にあった櫓を本丸に移した経緯があって、築城時のオリジナルの姿ではないという理由で、日本の100名城には選ばれませんでした。最近になって、ようやく200名城の仲間入りをしたのでした。

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