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パリ・くらしと彩りの手帖 №135 [雑木林の四季]

パリからお届けする展覧会:きょうは藤田嗣治のこと

              在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

 藤田嗣治を知らない日本人はそういないのではないだろうか。そしてまたつい最近もわたしの読者から、パリで藤田の絵を買うことが出来る画廊をご存じですかという手紙を受け取ったばかりだった。それで、時々出物のある画廊の前を通ったから聞いてみたら、このところ全然出ないという返事だった。私もパリに来たばかりのころサンジェルマンデプレやモンパルナスなどアーテイストの多い辺りにいたから毎日どっぷりとその雰囲気に漬かっていた。そして藤田の住んでいたカンパーニュプルミエールは私の住んでいたモンパルナス通りから隣りのボワッソナードが始まるところだったから彼のアトリエを見上げて通る事は日常だったし、そうでなくとも藤田の絵を買いたいフランス人に時々ついてきてくれないかと頼まれたりしたものだった。いま住んでいるパリ郊外の隣人のお母さんも一枚持っていると言っている。それなのに、今ごろその作品展をやるという事で、びっくり。 マイヨールの好きだったモデルがついにパリの画廊の多いカルチエにまるでマイヨールtとその友人達のために開いたような画廊だったが、10年か20年前に今度は立派な美術館まで開いてしまったのだった。そしてこの新しい美術館になかなかの企画を持って来てマイヨールを思い出させていたのだったが、どうやら其れもタネがつきたのか最近ではまるでこちらを惑わせていたのだった。それにしても藤田嗣治とはみんなが知っていてもそれでいて展覧会をやるなどとは今まで思いつかなかったのだろうか、それともあのパリに来る度にみんなを困らせていた、なんとも理解出来ない未亡人がいままでさせなかったのだろうか?藤田の死後すぐに美術の研究者が、フジタについての2冊続きの研究書を出して話題になったのだが、これも未亡人の反対で書店で売れないことになった。死の数年前にヴィリエールバクルと言うところに農家を買ったがここではキリスト教徒になる為の心の準備をしていたのであろうか、夫の死後、夫人はこの家を街に寄付したという。いまでは藤田美術館担っているといってもいいだろう。藤田はクリスチアンになり、レオナール藤田になるために、その為の絵を描き続けた。もうこれ以上はできないという限界を感じてこの家を離れたという。そして、モンパルナスの駅と藤田の住んでいた道とのちょうど真ん中にあるモンパルナス通りの教会でお葬式が行われた。     丁度今フランスで50周年記念が行われている学生運動のあの年の事だったのだ。私もここで藤田のお葬儀に参加した一人だが、この本のことは今まですっかり忘れていたが、どうなった事だろうか。今ごろは書店に顔を出しているかも知れない。この展覧会の機会に手直し出来ているといいが。いつからこの素晴らしい企画が持ち込まれたのだろうか。この美術館h今から20年ほど前に作られた物だが、あのフランスの彫刻家マイヨールがこよなく愛した女性モデルがマイヨールの亡き後、彼の彫刻を主とする画廊を開いて、マイヨールをはじめその周りの一連の作品を展示していた物だ。そこにはわたしの好きなクーチュリエの彫刻もかなりなコレクションを見せていた。でもこのミューズ も歳とって遂に別の世界に行ってしまい、その息子達がいろいろと続けて来たがそれも終わりが来たように、寂しいかぎりだったのだが、今回の展覧会で人の入りは素晴らしくて美術館は予定を変更して受け付けている。フランスでは普通はあり得ない事なのだが。
 フランスに来たばかりの 藤田。ヨーロッパの女性や子どもたちのふわふわ飛んでいってしまいそうな感触をどう画面に伝えるか、いや、自分も 実際に頭を刈り込んでみよう、というようにいろいろと工夫を凝らした。シッカロールを絵の具に混ぜたり、色々試したという。そしてその藤田がレオナールフジタに変わっていく。

 この展覧会でフジタに親しみを覚えたら、次はどうしてキリスト教徒になったかという疑問、これを解決できるとしたら、シャンペンのムンに描かれているその為のチャペルを訪れてみる事をお勧めする。彼はここで力尽きたといっているのだから。私はシャンペンを呑んでもその解答を得られるとは思わないが、彼自身が描いているチャペルをみることは彼の精神を観ることにほかならないと思うからだ。





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