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浜田山通信 №213 [雑木林の四季]

横倉本家邸の消滅

                ジャーナリスト  野村勝美

 先日急に暖かくなったので、久しぶりに高井戸図書館から神田川沿いを散策して浜田山二丁目の横倉善兵衛本家邸に差しかかったら、敷地のあちこちに立ち入り禁止の張り紙が出ていた。ここは杉並区管理物件で、29年8月24日から30年3月30日まで動植物調査、測量を実施中、みどり公園課とある。いやあもう半年以上も散歩にこなかったのかとわが脚の衰えを感じた。屋敷の北と東は区の柏の宮公園で、お天気のよい日は子供たちがサッカーボールを蹴ったり、犬の散歩のママ友たちがおしゃべりをしたり、一周500メートルほどの舗装道を老若のランナーがかけめぐったり、住民にとってはありがたい公園である。敷地面積43,458㎡。100t貯水されている防火水槽2基、震災対策用貯水槽(5t)1基、災害用トイレ21基などを備えた防災公園でもある。公園内の高木はイヌシデ、ケヤキ、アカマツなど1220本。サクラの老木も20本ほどある。このサクラは先々代のおばあちゃんが植えたのでもう100年以上経っている。私が浜田山に越してきてから約60年になるが、当時は樹勢が真っ盛りで、サクラのトンネルを行く感じだった。
 公園の南斜面には林丘亭と称する茶室がある。これは新宿区矢来町にあった若狭小浜藩主酒井勝晴の下屋敷に小堀遠州が造ったものと伝えられ、昭和34年に日本興業銀行が移築した。公園全体はもともと横倉家のもので、昭和25年に興銀に売却された。
 横倉家といえば、旧高井戸村では内籐庄右衛門家と並び称される大地主で、戦前は荻窪の駅まで他人の土地を踏まないで行けたといわれている。内藤家が農業経営中心だったのに対し、横倉家は正油製造、質屋、金融、酒、煙草、米、薪、肥料など商いが中心だったらしい。私より年上の土地の人は、子供の頃、酒やタバコを買いに行かされお釣りはお盆にのせたものをもらったという。当時は人見街道沿いの住宅公園になっている所に屋敷があり、いまも大きな土蔵だけ残されている。
 住宅公園の東側は、かって三井財閥の大番頭だった小山五郎邸。もう30年以上も昔になるが、三越の社長が愛人のデザイナーの商品を売らせて世間を騒がせたことがあったが、小山氏の鶴の一声で社長はクビ、騒動が収まった。同氏の夫人は、横倉家のおじょうさんで、同氏が三井グランド、現在浜田山パークシティになっている土地を開発した時に結ばれたという。
 三井と興銀グランド、興銀の北側の新日鉄グランドも、もともと横倉家の土地だったのだが、いまはほとんどマンションになった。
 横倉本家邸へは一度だけ訪ねたことがある。門柱から玄関まで5、60メートルはある。「松は植えるなといわれたんですがね。松葉でトヨが詰まるから。」とそんなことだけ記憶している。同家に跡取りはなく、高齢の当主は家屋敷を区に寄付して、石原伸晃邸近くのアライブ浜田山という老人ホームへ入られたらしい。家はすでに更地になっていた。区は柏の宮公園に併合する予定だ。世間が日本もアメリカもガチャガチャしている時に、さみしい―。

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